いったい世界は、人間は、初めからこうだったのでしょうか。なぜこんな世界になってしまったのでしょうか。ここから逃れる道はないのでしょうか?
神が望んでいる生き方ができないばかりか、「神と隣人を憎む方へと、生まれつき心が傾いている」という事実を思い知らされました(問5)。この人間の腐敗した性質に対する反応は、二つあります。一つは、開き直り。「生まれつき」皆がそうであれば、考えてもしかたがないではないか、と。しかし、罪をいい加減にすることは、自分の生き方自体をいい加減にしてしまいます。悲惨な現実を何一つ変えることはできません。人間が本当に生まれ変わるためには、生まれ持った性質に向き合わねばならないのです。
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もう一つの反応は、責任転嫁。「神は人をそのように邪悪で歪んだものに創造なさったのですか」(問6)。「邪悪」とは心の根っこから腐っていること。「歪んだもの」とは、あるべき姿が“倒錯してしまっている”ということです。生まれつき腐敗しているのなら、そのように造った方が悪いではないか。神がいるならなぜ悲惨があるのかと、責任を神になすりつける。そんなふうに産んだ親が悪い、わたしを創造した神が悪い!
私たちは親の気持ちも神の心も知らないで、勝手なことを言うものです。そうではないと、信仰問答は答えます。むしろ神は、私たちを「良いものに、また御自分にかたどって」、お造りになったのだと。いったいどこの親が、邪悪な子を産むことを望むでしょうか。まして唯一の善であられる神は、人をも「良い」ものに造られたと『創世記』は記しています。しかも、御自分にかたどって人を創造されたと(1:27)。
神は霊ですから、顔かたちを似せてということではありません。そうではなく、性質が似ているということです。ちょうど子供がやること為すこと親に似ているように、人はまるで神の生き写しのように造られたというのです。そこには何の隔ても壁もありません。人は神によって完全に知られ愛され、人もまた神を正しく知って愛する(ヨハネ17:3)。それが人間にとっての永遠の幸福、永遠の命だと聖書は言います。創世記は、そのような喜びに満ちた輝かしい人間の姿(イメージ)をみずみずしく描いています。これが聖書の人間観なのです。
まるで木の上の巣から落ちたヒナのように、
人は神との幸いな状態から落ちてしまいました。
それでは“なぜ”というのが次の問いです。ここに人間の堕落が教えられます。本来良いものに造られたはずの人間が、ある時、堕落した。それが、創世記3章に記される堕落物語です。何が問題だったのかは、次回学びますが、それは「不従順」によると言われます。人間は神と向き合って造られましたから、神の方を向いて生きることが幸いのはずでした。
けれども不従順とは、神に背を向けてしまうことです。神は依然として愛情深く人をご覧になっているのに、人が背を向けたのです。
美しい川の源が汚染されると川全体が腐敗するように、始祖アダムとエバが堕落したためにすべての人間が毒されました。こうして人は皆、「罪のうちにはらまれて生まれてくるのです」。そんな馬鹿な、と思うかもしれません。アダムやエバと何の関係があろうか。そう思うのも無理はありません。けれども、少し頭を冷やして、自分のことを考えてみましょう。アダムやエバたちとは違って、私は清らかだと言える人が誰かいるでしょうか。むしろ私たちはアダムやエバと同じように、日々、神に背を向けてはいないでしょうか。
堕落物語は決して昔話ではないのです。「わたしは咎(とが)のうちに産み落とされた」と、ダビデ王は自分の罪深さを嘆きました(詩編51:7)。それは、自分の内に罪の血が流れているとしか言いようのない姿。それが“原罪”ということなのです。
まるで木の上の巣から落ちたヒナのように、人は神との幸いな状態から落ちてしまいました。「どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いている」とは、落ちた所に自力で戻りうる善は少しも持ち合わせていない、ということです。どうあがいても人間は、神の元に自分で戻ることができないのです。
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しかし、「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:27)。堕ちた世界で這い回るほかない私たちが再び神の元に戻れるとすれば、それは上からの助けです。生まれつき腐敗している人間がもう一度生まれ変われるとすれば、それは神によって「再生」させられる道のみです(ヨハネ3:5)。
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