教会の屋根にそびえる十字架。若者の耳元や胸元で光る十字架のアクセサリー。あの十字架はいったい何なのでしょう。十字架の意味を、そこに至るイエスの裁判と合わせて今回は学びましょう。
『使徒信条』には私たちが信ずべき基本的な事柄が網羅されていますが、その中で唯一、神の御業や御性質とは関係のない言葉が「ポンテオ・ピラトのもとに」という言葉です。ポンテオ・ピラトというのは、人の名前です。ローマ皇帝の代理(総督)として、紀元26〜36年の10年間、ユダヤを統治した人物です。イエス・キリストは、この人の統治下において苦しみを受けられた。別に言えば、裁判を受け有罪とされ、十字架刑に処せられました。
なぜこのような人物の名前を、キリスト教会は最も大切な信ずべき事柄として受け継いできたのでしょうか。その第一の理由は、主イエス・キリストが十字架におかかりになったという出来事が決して作り話なのではない、私たちのこの人間の歴史の中で確かに起こった歴史的事実であるということを証するためです(ルカ1:1-3)。イエス・キリストの御生涯とりわけ最後の苦しみは、私たち人間社会のただ中で起こった。いえ、人間の生々しい現実のただ中でこそ起こるべき出来事なのでした。
実際、イエスがポンテオ・ピラトのもとに受けた裁判は、実に理不尽な裁判でした。不利な証言によって一方的に断罪したユダヤ人指導者たちの訴えに基づいていたため、何一つ罪を見出すことができず、さらには背後に策謀があることに気づいていながら、扇動された群衆たちを恐れて有罪としたピラト(マルコ15:1-15)。時の権力者たちと民衆がねつ造した冤罪(えんざい)でした。
わたしはただ“真理”を証しするためにこの世に来たと語るイエスに対し、ピラトが「真理とは何か」と問う印象的な場面があります(ヨハネ18:37-38)。人間の様々な思惑が入り乱れる中で、まさに神の真理が失われ曲げられて行きました。
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ところが、この出来事こそ神の御計画による救いの出来事なのだと聖書は教えるのです。「それは、罪のないこの方が、この世の裁判官による刑罰をお受けになることによって、わたしたちに下されるはずの神の厳しい審判から、わたしたちを免れさせるためでした」(2コリント5:21参照)。
罪の無い方が私たちの身代わりに有罪とされたおかげで、本来死刑判決を受けるはずの私たち罪人が無罪とされる。この理不尽な出来事こそ、実に神の知恵であり計画であり、救いなのでした。
この悲惨と矛盾に満ちた人間社会の現実のただ中に、
十字架は打ち立てられました。
キリストの苦しみにはもう一つの出来事がありました。それが「十字架」の死です。十字架の苦しみの意味は問37または43に記されていますが、ここでは「十字架」につけられたという「死に方」そのものの意味を問うています。
十字架とはそもそもローマ式の処刑法で、極悪人に執行される最も残酷な極刑であり、恥辱と嫌悪の象徴でした。木にかけられた全身の重みを、釘に刺し貫かれた両手両足だけで支えることによって全身に激痛が走り、やがてその痛みと渇きの中で息絶えるのです。
このような刑に処せられねばならないこと自体がユダヤ人にとっては屈辱的なことですが、さらに忌まわしいことに「十字架の死は神に呪われたもの」なのでした。木にかけられた者は皆呪われているからです(申命記21:23/ガラテヤ3:13)。
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罪の無い方が神に呪われることによって、本来罪に汚れた私が受けるべき神の呪いを「御自身の上に引き受けてくださった」ということ、それが十字架という出来事です。この愚かに見える方法こそ、人を救う神の知恵なのです(1コリント1:18-25)。
したがって、この十字架のもとに憩う者、この十字架こそ神の救いと仰ぐ者にとって、神の呪いはもはやありません。どんなことが起こりましょうとも、キリストの十字架の下に身を寄せる者にとって、神の呪いは決してありえないのです。神の御子が一切の呪いを受けてくださったからです。
ポンテオ・ピラトのもとで罪無き御方が苦しみを受け、恥辱と嫌悪を身に負い、神の呪いまでもお引き受けくださったのは、ただ私たちの、そして“私”のためです。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった」(イザヤ53:5)。
この悲惨と矛盾に満ちた人間社会の現実のただ中に、十字架は打ち立てられました。それは否定し得ない神の愛の証しです。
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