『ハイデルベルク信仰問答』の第二部「人間の救いについて」の最後の問答は、キリスト教会における“戒規”についてです。あまり耳慣れないこの言葉の意味するところを御一緒に学んでみましょう。
主イエス・キリストの福音による“天国の鍵”のもう一つの務めは「キリスト教的戒規」です。「戒規」という言葉は誤解を与えやすい言葉ですが、基本的には訓練や躾(しつけ)ということと同じです。
どの家でもその家ごとの家風や価値観にしたがって子どもたちを躾けるのと同様、キリスト教会でも躾をします。個人の自由が叫ばれる今日、躾はあまり好まれません。しかし、キリストの教会がこれを曖昧にしてしまうと、教会が自らの基準を見失いかねません。もし何を信じても何をやってもかまわないなら、教会に来る必要もキリスト者である必要もなくなってしまうでしょう。戒規は、真理の柱であり土台である、生ける神の“家”としての教会の躾なのです(1テモテ3:15)。
「キリスト者と言われながら非キリスト教的な教えまたは行い」をしてしまうことがあります。私たちは罪人ですから、たといキリスト者であっても過ちを免れることはできません。大切なことは、それを過ちであるとハッキリ認める自覚が教会にあるかどうかです。誰でも罪を犯しますが、問題はそれに対する対処の仕方です。
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キリスト教的戒規にとって、まず大切なことは「兄弟からの忠告」という点です。いきなり牧師が怒るとか教会役員が出てくるのではなく、同じように信仰生活を送っている兄弟姉妹たちに注意をしてもらうということです。“それは違うんじゃない?やめた方がいいんじゃない?”と。教会はキリストに結び合わされた一つの家族なのですから、家族同士が注意し合う。それで“ああ間違ってた。もうやめるよ”となるなら、それでおしまいです。家族なのですから(マタイ18:15)。
しかし「度重なる兄弟からの忠告の後にもその過ちまたは不道徳を離れない者は、教会または教会役員に通告されます。もしその訓戒にも従わない場合、教会役員によっては聖礼典の停止をもってキリスト者の会衆から、神御自身によってはキリストの御国から、彼らは締め出されます」。これは主イエス御自身によって指示されたプロセスです(マタイ18:16‐17)。
悪さをしても頑固に謝らない子どもを、頭を冷やして反省するまで家の外に出して食事にもあずからせないという躾が、昔はありました。ここで言われる「締め出す」とか「聖礼典の停止」も、それと同じです。決して縁を切るとか、勘当するということではありません。躾の一つの手段なのです。ですから「彼らが真実な悔い改めを約束し、またそれを示す時には、再びキリストの教会の一部として受け入れられ」ます。
説教にせよ礼典にせよ戒規にせよ、すべての目的は
主イエス・キリストを中心とした信仰共同体を建て上げることにあります。
前回も指摘したように、ここでも“鍵”のたとえは完全ではありません。「締め出す」のは鍵をかけて二度と入れなくすることではなく、真実に悔い改めればいつでもまた入ることができる一時的な措置なのです(1コリント5:5)。このことは問84と比べるとよくわかります。天国は福音を聞いて信じる者すべてに大きく開かれますが、締め出すという戒規の方は非常に慎重にするように指示されています。どちらに強調が置かれているかは一目瞭然でしょう。
私たちを罪の世から救い出して天国に入れることが、神の御心です(1テモテ2:4)。ただ天国には天国の価値観がありますから、その子どもとして成長するために躾が必要なのです。それはあくまでも家族の一員として扱うからであって、家から追い出すためではありません。したがって、家から出される方も出す方も共に心を痛めるような家族としての絆がなければ、戒規の意味は半減してしまうでしょう。
健全なキリスト教的戒規がなされるためには、健全な信仰に基づいた共同体が必要です。説教にせよ礼典にせよ戒規にせよ、すべての目的は主イエス・キリストを中心とした信仰共同体を建て上げることにあります。皆が心から主イエスに寄り頼んで、心安らかに憩えるような環境を造り上げることです。そのために、福音が生き生きと説かれ、礼典を通して天上の恵みにあずかり、今なお罪深い私たちが躾を受けながら少しずつ神の子どもらしく成長して行く。これが、まさに教会が御国へと変えられて行くための“鍵”の務めなのです。
『信仰問答』は、これをもって、第二部「人間の救いについて」を閉じています。
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