感謝の生活のガイドラインとしての十戒も、最後の戒めになりました。私たち人間にとっての本当の幸せとは、何なのでしょう。もう一度原点に立ち返って、御一緒に学んでみましょう。
全生活にわたる感謝の生活の基準として与えられた「十戒」の最後の戒めは、十戒全体を締め括る戒めになっています。
「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」という第十戒は、一見、第八戒の「盗んではならない」と重複しているように思えるかも知れません。しかし、この戒めの特徴は冒頭の「欲してはならない」という言葉にあります。他の戒めでは様々な行為が禁じられていますが、第十戒では心の中で起こる“欲”そのものが問題とされているからです。
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何一つ不自由のないはずのエデンの園に置かれていながら人間が堕落したのは、欲に動かされた結果でした(創世記3:6)。「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:14-15)とある通りです。
第十戒は、過ぎ去る世の欲望から神の子らを守り、御父への愛の内に留まらせようとする戒めです(1ヨハネ2:15-17)。すなわち、これまで学んできた戒めで禁じられていた「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来る」(マタイ15:19)のですから「神の戒めのどれか一つにでも逆らうようなほんのささいな欲望や思いも、もはや決してわたしたちの心に入り込ませないようにするということ」が求められているのです。
私たちはいきなり殺すわけではありません。何の思いもなしに姦淫や盗みを働くわけでもありません。最初の「ほんのささいな欲望や思い」が、ちょうど坂を転げ落ちる雪玉のように大きな罪へと膨れ上がって、私たちを陥れるのです。それは「神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いている」ためです(問5)。
ですから、ほんの小さな“欲望”をさえ「もはや決してわたしたちの心に入り込ませないようにする」と同時に、「あらゆる罪には心から絶えず敵対」するという決意が必要です。ふとした心の緩みから、罪はいくらでも私たちの心の中に忍び込んでくるからです。別言すれば、心の奥底まで御存知であられる神(詩編139:23)の御前に、絶えず私たちの心の思いを置いて生きるということでしょう(詩編19:13)。
そのような短い生涯を、感謝の思いに満たされて送ることができたなら、
どんなにすばらしいことでしょう。
とは言え、情けないほどに弱い私たちの心の隙間をどうすれば埋めることができるのでしょう。興味深いことに信仰問答は、私たちの心を別な思いで満たすように、すなわち「あらゆる義を慕い求めるように」と勧めています。原文では「慕い求める」と「欲望」とは同じ言葉なのです。
つまり、私たちが“無欲”になることではなく、むしろ神の国と神の義を慕い求める心になることこそ大切だというわけです(マタイ6:33)。全人格が罪に傾いているならば、その傾きを神の方へと修正することです。そして、神からいただいた私たちの心を「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なこと、また、徳や称賛に値すること」で一杯にすることです(フィリピ4:8)。
「どんなことにも感謝しなさい」とパウロは命じています(1テサロニケ5:18)。“感謝した方がいい”という勧めではなく“感謝しなさい”という命令です。私たちの心は、放っておけば、たちまち不平不満や思い煩いで一杯になってブツブツ文句を言い始めることでしょう。ですから、そうした私たちの心に手綱をかけて、無理にでも感謝の心へと向きを変えることが必要なのです。
実際、キリストにある私たちの身の回りには、溢れんばかりの神の恵みが満ちているはずです。何より主イエス・キリストという計り知れない富をいただいているはずではありませんか。感謝すべきことなど、山のようにあります。
世にあるものは過ぎ去って行きます(1ヨハネ2:17)。この世の命もまた束の間です。そのような短い生涯を、感謝の思いに満たされて送ることができたなら、どんなにすばらしいことでしょう。十戒は、私たちが全生活をあげて“感謝”に生きるためのガイドラインでした。これらの戒めに導かれながら、神が私たちの幸いのために示しておられる道を歩んでまいりましょう。
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