2024年11月28日(木)12人の弟子たち(マタイ10:1-4)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
学校や職場で、あるいはグループ活動の中で、何かの役割に選ばれる経験をした人は少なくないと思います。そういう経験がないとしても、もし「あなたが選ばれました」と言われたら、どう感じるでしょうか。うれしい気持ちになるでしょうか。それとも少しプレッシャーを感じてしまうでしょうか。
何に選ばれるかにもよるかもしれませんが、選ばれるということは、しばしば特別な意味を持つものです。そこには大きな責任を伴うこともあります。何か大切な役割を担う時にはなおさらです。大切な役割であればあるほど、どんな人が選ばれるのかには注目が集まります。
今日取り上げる聖書の箇所では、イエス・キリストが12人の弟子をお選びになり、神の国を宣べ伝えるためにお遣わしになるシーンが描かれています。興味深いのは、イエスがお選えらびになった弟子たちは、決して特別なエリート集団ではありませんでした。むしろ、社会的に異なる立場にいたり、異なる背景を持っていたりする、ごく普通の人々をお選びになりました。
イエス・キリストがどのようにして12人をお選びになり、何をその人々に託されたのか、そして私たちもまた一人ひとりがどのようにして神に用いられる器となりうるのか。今日はそのことをご一緒に考えていきたいと思います。」
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 10章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは12人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
今お読みした箇所には12人の弟子たちをお選びになった話が記されていました。そこには弟子を必要とされる背景がありました。前回学んだ箇所で、主イエス・キリストは「収穫は多いが、働き手が少ない」とおっしゃっていました。というのは、イエス・キリストが宣教活動の中でご覧になったのは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている様子でした。
主イエスが活動を始められた頃、ユダヤの民はローマ帝国の支配下にあり、社会的にも、宗教的にも大きな分断がありました。多くの人々が救いの到来を待ち望んでいましたが、政治的には圧政が続き、宗教的には様々な分派が生じていました。そうした様子をご覧になったイエス・キリストは弟子たちに「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とお命じになったのでした。
10章ではイエス・キリストご自身が12人の弟子たちをお選びになりお遣わしになる様子が描かれます。
イエス・キリストがお選びになった12人の弟子たちは、いずれも特別な立場を持った人々ではありませんでした。その中には、漁師や税金を取りたてる仕事をしていた者、さらには反政府的で宗教的には過激な思想を持つ熱心党のメンバーも含まれていました。このような多様な背景を持つ人々が、イエス・キリストによって選ばれ、神の国の働き手として召されたことには深い意味があります。
イエス・キリストは、社会的、宗教的に周縁にいた人々を選び、その人たちに「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気を癒す」権能をお与えになりました。このことはイエス・キリストが宣べ伝える「神の国」の福音が、特定のエリート層や高貴な者たちだけでなく、すべての人々に向けられていることを示しています。
さて、この箇所で特に注目すべきなのは、12人の弟子たちの名前のリストです。ペトロとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは、すでにイエス・キリストの弟子として知られている人物です。それらの人たちは漁師でしたが、漁師としての生活の場から、イエス・キリストによって召しだされ、弟子として従う道を選んだ人たちでした。
その一方で、名前のリストの中には、少し驚くべき組み合わせの人物も含まれています。徴税人マタイと熱心党のシモンです。徴税人は、ユダヤ人から見ればローマ帝国の手先であり、社会的にも宗教的にもユダヤ人からは嫌われていました。逆に熱心党のシモンは、ローマ支配に反対し、武力で解放を目指していた過激派でした。この二人が同じキリストの弟子として選ばれたことは、イエス・キリストがいかにして分断された社会の壁を越えて、すべての人々を神の国の働きに招いておられるかを示しています。
弟子たちの名前のリストには、かろうじて名前だけが記されている人たちもいます。その後、この福音書の中に、二度と名前の出てこない人たちです。そうであったとしても、イエス・キリストはその人をお選びになり、ほかの弟子たちと同じように使命と権能を授けられたのです。
イエス・キリストが弟子たちにお与えになった使命は、ただ奇跡を行うことではありませんでした。弟子たちに与えられた最も大切な使命は、「天の国が近づいた」というメッセージを宣べ伝える務めでした(マタイ10:7)。
イエス・キリストが弟子たちをお選びになり、弟子たちにお与えになった神の国の福音を宣べ伝える使命は、ある意味では、この12人に与えられた特別な使命であったということができるかもしれません。しかし、神によって召しだされ、イエス・キリストに対する信仰を与えていただいた私たちにも託されている使命であるともいうことができます。私たち一人ひとりは、社会の中で神の国の到来を示す存在として召されています。それは、どんな職業や背景を持っているかに関係なく、神の働きに用いられる器として選ばれているということです。私たちはある意味で12人の弟子たちなのです。
また、この12人の弟子たちは、完全な人々ではありませんでした。弟子たちの中には、イエス・キリストを裏切る者もいました。イエス・キリストの弟子であることを告白すべき時に、逃げ出してしまった弟子たちもいました。誰もがすぐに立派な働き手となったわけではありません。しかし、イエス・キリストはそのような人々を選び、育て上げ、神の国の働きに用いようとされたのです。私たちもまた完璧ではありませんが、それでも神は私たちを愛し、用いてくださいます。
イエス・キリストが12人の弟子たちをお選びになり、神の国を宣べ伝える使命をお与えになったことは、私たちにも多くのことを教えてくれます。第一に、神の国はすべての人々に開かれており、どんな人でもその働きに用いていただくことができるということ。第二に、ほかでもない私たちが神の国の働き人として召されているということです。私たちがどんな立場にあっても、神の国を示すために生きることができるのです。