ふさわしさ | コリントの信徒への手紙一 11章

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コリントの信徒への手紙一 11章

従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』 コリントの信徒への手紙一 11章27節

ふさわしさ

カトリック教会はパンをキリストの体そのものと捉えるため、パンに宿るキリストの正しさと人間の罪との間に落差が生じます。それが聖餐の場面での裁きへの恐ろしさとなります。もちろん、聖餐に与る際の人間の状態が軽んじられてしまってはなりません。

しかしカルヴァンは、「ふさわしさ」ということの議論を、全く神中心的に展開します。カルヴァンによれば、「ふさわしさ」の追求は人間には不可能なことでした。また、神は信仰の弱い者を強めるために聖餐を定めてくださったので、自らの弱さを理由に聖餐を拒否するとしたら、神への侮辱になると考えました。

難しい問題ですが、自分が正しくなったら聖餐に与ることができ、強くなれば「ふさわしく」なれるということではありません。弱さと病を抱えた私たちは、自己の力ではいかんともし難い罪人であることを認め、そこからの救いを求め願います。その時の悔い改めこそが、神の救いに値する「ふさわしさ」となるのです。

神が、今を生きる私たちそれぞれの必要に全く適った救いと赦しを与えてくださいますように。

吉岡 契典(神戸改革派神学校)