哀歌 4章
貴いシオンの子ら、金にも比べられた人々が
なにゆえ、土の器とみなされ
陶工の手になるものとみなされるのか。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 哀歌 4章2節
金の器から土の器へ
木下 裕也(岐阜加納教会)
貴いシオンの子ら、金にも比べられた人々が
なにゆえ、土の器とみなされ
陶工の手になるものとみなされるのか。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 哀歌 4章2節
木下 裕也(岐阜加納教会)
2024年8月の聖書日課をまとめて表示します。
「哀歌」の聖書日課をまとめて表示します。
木下 裕也が担当した聖書日課をまとめて表示します。
エルサレムの都が栄華をきわめていたとき、そこに住む人びとは黄金のように輝いていた。しかし、今その人びとは土くれのように価値のないものと見なされている。都は荒れ果て、人間も堕ちるところまで堕ちてしまった。そう歌い手は嘆きます。
しかし、人間が輝きを放つのだとすれば、それは神が共におられるゆえです。パウロは言います。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(2コリ4章7節)。人間は本来、もろく弱き土の器です。そこに宝が、復活のキリストの命が納められることによって、土の器は土の器のままで、永遠の命の光を照り返して生きるのです。
「どの街角にも聖所の石が打ち捨てられている」(哀4章1節)。これこそ、エルサレムの都における深刻な事態です。人の目に価値なきものと映るものが、神の御目には価高い。霊の目を開かれた者たちには「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった」(詩118編22節)、この偉大な救いの真理が見えるのです。十字架上で見捨てられたキリストこそ、命の君です。この御方に立ち帰るとき、人間は真の輝きを取り戻すのです。
【祈り】
私たちが被造物としての栄光に生きることができるよう、どうかキリストに立ち帰らせてください。