いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は匿住所、匿名希望の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
匿名ご希望ということですので、とりあえずAさんと呼ばせていただきます。それで、Aさんからのメールを読んでいて、Aさんの心の中の葛藤を感じさせられました。まず、問題となっている人物をAさんは一貫して「友人」と呼んでいらっしゃいます。Aさんにとっては今でもその人はAさんの「友人」なのですね。そう意識していればこそ、赦すべきか赦さざるべきか、赦しとはいったい何なのか、深く考えこんでしまっているのだと感じました。もはや「友人」とも思わないというのであれば、赦せない自分の気持ちをもっと素直に正当化できたのではないでしょうか。そして、もう二度とそんな人とは関わらないということで決着をつけたとしても、それほど心の葛藤にはならなかっただろうと思います。
さて、お便りを読んでいて、いくつかのことを整理して考えなければならないと思いました。
一つには、赦すということと、是認したり許可したりすることとは全然違うということです。日本語で「ゆるす」という言葉を漢字で書くと、「許可する」の「許」という漢字を使う場合と、「恩赦」「特赦」の「赦」という漢字を使う場合があります。普通、キリスト教で「罪をゆるす」という場合には、「恩赦」「特赦」の「赦」という漢字を使います。この場合の「ゆるす」という意味は、決して「差支えないとみとめる」ことでもなければ、「してもよいと承諾したり許可したりする」ことでもありません。人を赦すということは、その人のとった行動が正しかったと認めることでは決してありません。ほんとうに正しいと認められることであるならば、赦す赦さないの問題でありません。
むしろ、悪いことは悪いこととして告発すべきです。是認したり、妥協したりすべきではありません。罪を告発することは、その人を赦さないということにはならないのです。その人を放置しておけばますます被害が拡大すると思うのであれば、その悪い行動を指摘し、告発することは、少しも「罪を赦す」ことと矛盾するものではありません。この点は誤解してはいけないと思います。
主イエス・キリストはマタイによる福音書18章15節以下で、罪を犯した兄弟にはまず忠告するように勧めています。その上で罪を赦し、その兄弟を受け入れることが問題となるのです。
もっとも、罪を告発すると言いましたが、これとても守るべきルールがあることは言うまでもありません。キリストは、先ず二人きりのところで本人に直接忠告するようにと勧めています。
ところで、キリスト教の「罪の赦し」について考える時、究極的には罪を赦す権威のあるお方は、神様ご自身のほかにはおられません。そういう意味では、わたしたちには誰かの罪を赦したり、赦さなかったりすることは出来ません。わたしたちにできることは、罪を罪として認める人を受け入れることだけです。受け入れるということは、一度悔い改めた罪のことでその人を再び非難しないということです。
そして、そのように、罪を犯した人で悔い改めた人を受け入れるようにと聖書で勧められる理由は、神の御前にわたしたちも受け入れられた罪人の一人に過ぎないからです。このことについても、先ほど引用したマタイ福音書の18章では、一つのたとえ話を用いてイエス・キリストは教えてくださっています。
さて、Aさんからのご質問には、その友人がなした過去の悪い行為についてはすべてを忘れ、今後は一切かかわりをもたないということが、正しいことなのかどうかということがありました。
先ほど引用したマタイ福音書の18章では、忠告を聞き入れない兄弟に関しては、もはやこれ以上のかかわりを持つ必要がないと記されています。そのような取り扱いは、少し冷たい印象を受けるかもしれません。しかし、わたちにできることには限界があることも知っておく必要があると思うのです。いえ、このような限界を設けてくださっていることに感謝しなければならないかもしれません。Aさんの場合、その友人の方は自分のしていることを悪いとは思っていらっしゃらないようですね。そういう人まで聖書は赦すようにと、わたしたちに求めていないのではないでしょうか。もちろん、罪を裁くも、赦すも神様の御手のうちにあることですから、その人を神の手に委ねるよりほかはないのです。
最後にもう一点だけ覚えたいことですが、聖書が扱っているのは人間の心の奥深くにある罪の闇の部分です。神の力によらなければその闇からは誰一人として逃れることが出来ません。誰かが罪を犯してしまうというのは、本人にとっても避けがたいこともあるのです。もちろん、だからと言って責任を逃れることは出来ません。しかし、そういう人間の弱さに対して、深い同情と憐みを抱くことは誰に対しても必要なことではないかと思います。もし、それがなければ、心から罪を赦すことは難しいのではないでしょうか。