おはようございます。清和女子高校の山脇です。今朝はローマの信徒への手紙12:15「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」の御言葉を覚えたいと思います。
私は泣き虫です。学校の生徒の中には、私がいつ泣くだろうかと楽しみにしている生徒もいるくらい、本当によく泣きます。生徒にやさしい声をかけられた時、本やテレビなど美しい心に出会った時、自然と涙が出てきます。涙は悲しい時だけでなく、嬉しい時も出るものですね。どちらも涙に変わりはないですが、心の状態は随分と違うものです。聖書には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と書かれています。喜ぶ人と共に喜ぶことが、どの位できるでしょうか。泣く人と共に泣くことが、どの位できるでしょうか。
人は他人の喜ぶ姿よりも悲しむ姿を受け入れやすい性質があることに気がつきませんでしょうか。悲しんでいる人に対しては、何と可哀想にと同情する気持ちと共に、心のどこかに、私はそんな悲しいことがなくてよかったと、何か優越感を持つ気持ちがどこかにあるのではないでしょうか。だから悲しんでいる人に、非常にやさしい気持ちになって、慰めの言葉などをかけてあげる場合がありますね。しかし、喜んでいる人に対しては、どうでしょう。本当に心から共に喜ぶことができているのでしょうか。心のどこかに、うらやましい、おもしろくない、など醜い心がある場合が考えられます。入学、就職の合格⇒おめでとうといいながら、うらやましい、ねたむ気持。
私達は本当に弱い者です。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさいという教えは、実行に移すことは、なかなか困難です。でもそうなりたいと願っている人は、きっと他の人とも喜びも悲しみも分かち合うことができる人になれるでしょう。
私も常にそうなりたいと思っていますが、なかなか難しいです。悲しいことや腹立たしい時には、顔や態度に出してしまい、多くの方に迷惑をかけてしまいます。神様に全てをまかせて、祈って解決をするのでなく、自分の力で解決しようとして、大失敗をし、苦しい、悲しい思いを繰り返す毎日です。
聖書では、全ての事がらを神様にまかせなさい。そしてあなた方は「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはならない」「隣人を自分のように愛しなさい」と教えてくれています。
この事がらも難しいことです。でも日々の生活の中で、これらの事がらを心に刻み、生活なるならば、戦いもなく、本当に平和な生活が続けられるのではないでしょうか。
それらは全ての生活が神様に支えられ、導かれているという信仰を持ち、神様が私の全てを包み込むように愛して下さっていることを覚えて、心から、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶことのできる毎日でありたいと願っています。