キリストへの時間 2004年10月31日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

泥谷 逸郎(山田教会牧師)

泥谷逸郎(山田教会牧師)

メッセージ: 立ち返る者を喜ぶ神

 おはようございます。山田教会牧師 泥谷逸郎です。

 主イエス・キリストは沢山の喩え話をなさりながら、私たちに救いが必要なことをお教えになっています。これからお話しします喩えもその中の一つです。それは、九十九匹の羊と失われた一匹に羊の喩えです。あるとき、話を聞こうとしてイエス・キリストのもとに、「あくどい取り立てをする徴税人と札つきの悪党が近寄って」来ました。それを見たユダヤ教の指導者や律法学者たちは、キリストは、問題の多い連中と親しく食事まで一緒にしている、と言って非難しました。この非難に対して、キリストが話し始められたのが九十九匹の羊と迷い出た一匹の羊の喩えです。

 その喩えは次のようです。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいるとしましょう。そのうちの一匹が迷い出て、荒野で行方が分からなくなったらどうしますか。ほかの九十九匹は放っておいて、いなくなった一匹が見つかるまで捜し歩くでしょう。そして、見つかったら、大喜びで羊を肩にかつぎ上げ、家に帰ると、さっそく友達や近所の人たちを呼び集めて、いっしょに喜んでもらうでしょう。それと同じことです。迷い出た一人の罪人が神さまのもとに帰ったとき、少しも迷ったことのない九十九人を合わせたよりも大きな喜びが、天にあふれるのです」と話されました。

 新約聖書の中に、ヨハネによる福音書という一書があります。その中に、イエス・キリストの頃、羊飼いがどんなに羊を愛しているかをお話しになったところがあります。今でも、中近東やその他の地域での羊飼いたちは同じだろうと思います。「羊飼いの声を聞くと、羊は回りに駆け寄って来ます。羊飼いは一匹一匹自分の羊の名を呼んで連れ出すのです。先頭に立つのは羊飼い、羊はそのあとについて行きます。声を知っているからです。」さらに、キリストは、「わたしはよい羊飼いです。良い羊飼いは羊のためにはいのちも捨てます。・・・・・わたしは良い羊飼いであり、自分の羊を知っています。また羊もわたしを知っています」とも言われました。

 良い羊飼いは、一匹一匹の羊に名前を付けて、愛して養い守ります。ですから、羊が百匹いようと二百匹いようと、一匹いなくなるとすぐに分かります。雇われた羊飼いであれば、すべての羊の名前を覚えていないでしょうから、一匹失われても気づかないでしょう。しかし、良い羊飼いは名前を呼んで確認しますから、一匹いなくなるとすぐに気付き、その一匹を愛しているゆえに、他の愛する九十九匹を残しても、一匹を探し出すまで捜し回ります。なぜなら、羊は羊飼いの導きなしでは荒野の中での水のありかも、牧草のありかも知らず、餓死してしまうからです。

 「私たちは皆、罪のうちにはらまれて生まれて」来ました。ですから、私たちは、生まれつき罪深い者です。それゆえ、あらゆる悪に傾く性質を持っています。イエス・キリストは、私たちがこのように悪に傾く性質を持った者であることを、一匹の迷い出た羊に喩えておられます。すなわち、本来はキリスト・イエスの神さまに養われ、守られている者であるにも関らず、神さまを嫌って自分の望むままに人生を歩んで、結局は神さまの道を離れてさ迷い、餓死する状況にあるのです。私たち人間は、神さまの前には羊のような弱いものに過ぎません。自分では水も作れず、米も作れません。神さまが善人にも悪人にも、等しく雨と太陽の輝きを下さっているから、毎日毎日を生きることができるのです。羊飼いは、自分勝手に自分のもとを離れて死線をさ迷うようになった羊を必死になって見つかるまで捜し回ります。そして見つけたら、大喜びで羊を肩にかつぎ上げ、家に帰ると、さっそく友達や近所の人たちを呼び集めて、いっしょに喜んでもらいます。羊飼いが大変喜んでいる姿を彷彿と締め括りです。

 良い羊飼いであられるイエス・キリストは、神さまのもとからさ迷い出ている一人一人を、見出すまで今日も明日も何時も、捜し回っておられます。そして、一人の人が自分の罪と邪悪さと不信仰を悔い改めて父なる神さまに立ち帰るならば、天では大きな喜びがあるのです。イエス・キリストは、そのような一人一人を捜し出すためにこの世に来てくださった良い羊飼いです。良い羊飼いに養われる羊は本当に幸いです。ラジオ放送を聞いてくださっているお一人お一人が救われて幸いな人生を送ることができますよう祈ります。

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