ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教の牧師として、信徒に期待することというのはたくさんあるような気がします。しかし、あまりたくさんのことを期待しすぎれば、それはその人にとって重荷となってしまいます。まして、自分にも出来ないことを期待すれば、それこそ偽善者になってしまいます。
初代の教会の指導者たちがいったいどんなことを信徒たちに期待したのでしょうか、パウロの手紙を読むたびに興味を覚えます。
きょう取り上げようとしている個所にはそのような期待が祈りの言葉として書き連ねられています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 三章一一節から一三節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
今お読みした個所にはパウロの祈りの言葉が記されています。その祈りは三つの簡潔な願いからなっています。
最初の願いは、パウロが再びテサロニケを訪問することができるようにと言う願いです。これは先週学んだ直前の個所でパウロが願っていることと深く関係しています。パウロはこう書きました。
「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」(3:10)
パウロの願いはテサロニケの人たちともう一度直接会って、信仰に必要なものを補いたいと言うものでした。ですから、その道が開かれることを祈り願うのは当然のことといえます。しかしながら、その願いは今まで実現されることがありませんでした。かえってパウロの強い願いとは裏腹に、「サタンによって妨げられた」とさえパウロは感じていたほどです(2:18)。
そういう文脈の中で読むときに、パウロがイの一番にテサロニケの教会を再び訪問する道が開かれるようにと願った気持ちは痛いほどよくわかります。
ただ、パウロが残したたくさんの手紙の中で、特定の教会を訪れたいと言う願いを祈りの言葉として残した例は、ほとんどありません。それほどまでにパウロはテサロニケの教会のことを心配していたと言うこととができると思います。そしてまた、それが今までどれほど妨げられてきたのか、そのことも祈りの内容から窺い知ることが出来ます。
さて、二番めの祈りの内容は、テサロニケの教会の人々の愛が豊かに満ち溢れるようになることを期待したものでした。ちなみに、それよりも後に書かれたフィリピの信徒の手紙の中でも、パウロは教会員たちの愛がますます豊かに満ち溢れることを願っています(フィリピ1:9)。二つの手紙は、書かれた時期も宛先も異なりますが、それでも、同じ祈りを捧げているのには、パウロがいかに「愛」と言うことに関心を抱き、クリスチャンの生き方として「愛」をどれほど大切にしていたのかと言うことを窺わせます。
既にパウロはこの手紙の冒頭で、この教会が愛の労苦を惜しまない教会であることを神に感謝しています(1:3)。また、テサロニケの様子を知らせたテモテの報告にもテサロニケ教会の愛がうれしい方向に働いていることがありました(3:6)。そういう意味では、今のままでさえ、テサロニケの教会はパウロの期待に十分そっていると言えるかもしれません。しかしパウロはテサロニケの教会が愛においてなお一層向上するようにと願っています。もちろん、パウロは愛が豊かに満ち溢れるようになることが、人間の業ではないことを承知していました。だからこそ主イエスが愛を豊かに満ち溢れさせてくださるようにと願い求めているのです。
ところで、このクリスチャンの愛に言及する時、パウロは、教会員同士の愛はもちろんのこと、すべての人に対する愛も念頭に置いています。クリスチャンへの期待は書き始めればいろいろあることでしょう。しかし、突き詰めていけば、この「愛」と言うことに行き着くのです。愛というのは、言い換えれば、どれほど愛の対象に対して関心を抱きつづけるかということだと思います。関心のないところに愛は生まれません。関心のないところに愛は続きません。その関心とは興味本位の関心ではありません。その人が神の愛に浴することができるようにと願う関心です。
最後に、パウロの願った三番目の祈りは、世の終わりにキリストが再び来てくださるときに、テサロニケの教会の人たちが、神の御前で聖なる、非のうちどころのない者となるようにということです。
この祈りもフィリピの信徒への手紙(1:10)に繰り返されます。それほどにパウロにとっての関心は、一人一人のクリスチャンが最後まで成長しつづけて、世の終わりの時に完成された姿で神の御前に立つことなのです。
先ほどの愛についての祈りもそうでしたが、この祈りもまた、神がそうしてくださるようにとの願いなのです。
世の終わりの時に神の御前に清い姿で立つことは、わたしたちの願いであり努力目標であることは間違いありません。しかし、それ以上に、それは神の恵みの働きでもあるのです。
パウロはコリントの信徒への手紙一の一章八節九節でこう述べています。
「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。」
神は真実なお方ですから、その約束を守って、最後までわたしたちを支えつづけてくださいます。
ところで、三番目の祈りが記された一三節は、文法的には最初の二つとはちょっと違った文章になっています。祈りと言うよりは二番めの祈りの結果が目指す方向を指し示していると言ったらよいかと思います。つまり、愛が満ち溢れた結果、神の御前で清くとがめられるところのないものとなるのです。神の前で清く立つということは、他者への愛、他者への関心を抜きにしては成り立たないのです。パウロの祈りの言葉に耳を傾ける時、何を大事に生きるべきか、その方向が見えてくる思いがします。