ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
パウロはほとんどの手紙の中で、手紙の宛先となるクリスチャンのことを「聖なる者」あるいは「聖徒」と呼んでいます。確かにクリスチャンはみな神の御前に聖なる者なのですから、そう呼ばれるのはふさわしいことです。しかし、このテサロニケの教会へ宛てた手紙では、手紙の宛先人を「テサロニケにいる聖なる者たちへ」というパウロお決まりの書き方をしていません。もちろん、テサロニケの信徒への手紙は、現存するパウロの手紙の中では一番古いものですから、まだそういう決まりきった言い方をパウロはしていなかったのかもしれません。
しかし、手紙の本文には、テサロニケの教会の人たちがいかに聖なる者として歩むべきかという勧めの言葉に溢れていることからも明らかなとおり、パウロがテサロニケの信徒を聖なる者として扱っていることは間違いありません。きょう取り上げようとしている個所は、聖なる歩みについてのパウロの勧めの言葉です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 4章1節から8節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
きょうからテサロニケの信徒への手紙の学びも4章にはいります。もちろん、パウロがもともと書いた手紙には章や節が記されていたわけではありませんから、新しい章が始まるという言い方は正しくないかもしれません。
けれども、確かにここから新しい段落が始まると考えるには、それなりの根拠があります。まず、内容から言って、ここからはクリスチャン生活に関わる具体的な勧めの言葉が記されています。パウロの手紙はしばしば、後半部分にこうした具体的な勧めの言葉が記されますから、新しい段落が始まった目印になります。また、4章1節の出だしのギリシャ語「ロイポン」という単語も、ここから話題が変わっていることを示しています。同様に3章のおしまいは「アーメン」という言葉で終わっていましたから、明らかにここで一つの区切りがつけられています。
ということで、きょうの個所から新しい章が始まると考えるのにはそれなりの根拠があるわけです。
しかし、3章の話題と4章の話題がまったく切り離されているのかと言うと、そうではありません。少なくともパウロは3章のおしまいで、テサロニケの信徒たちについて、愛が満ち溢れ、その結果として、テサロニケの教会の人たちが聖なる、非のうちどころのない者となることを祈っていました。
4章でパウロが取り上げることがらは、このパウロの祈りと無関係な内容なのではありません。
さて、4章でパウロが先ず最初に勧めている事柄は、「神に喜ばれるための生き方」についてです。パウロはクリスチャンの歩みが結局は神に喜ばれるためにあるという意識でこの手紙を書いています。パウロはテサロニケで伝道していたときに、クリスチャンの生活について色々なことをテサロニケの教会の人々に教えたことでしょう。しかし、その一つ一つが向かっているのは、「神に喜ばれる」ということにあるのです。テサロニケの教会の人々はパウロから学んで神に喜ばれる生活を現に送っていますが、これからもそう励むようにとパウロは勧めます。
神に喜ばれる生き方とは、神の御心にそった生き方です。その神の御心とは「あなたがたが聖なる者となることです」とパウロは述べます。
具体的にパウロの念頭にある事柄は、「みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもってスケウオスをカタオマイすることだ」と述べます。
わたしは、今、肝心な分部をわざとギリシャ語の単語で言いました。というのは、「スケウオスをカタオマイする」ということがどういうことなのか、解釈に二通りあるからです。直訳すれば「器を得ること」「器を持つこと」という意味なのですが、新共同訳では「器」を「妻」と理解して「妻と生活する」と訳しました。もう一つの解釈では「器」を「自分自身」と解釈して「自分を節制する」と訳すことも出来ます。どちらがパウロの言いたかったことなのか、今となっては分かりません。もちろん、テサロニケの教会の人たちには間違いなく理解できたことでしょう。
ただ、前後の文脈から明らかなとおり、パウロの念頭にあることは、みだらな行いを避け、異邦人のような情欲におぼれることなく、聖なる生活を送って神に喜ばれるようになるということです。
「器」が「妻」を意味するのか「自分自身」を意味するのか、そのことはさておくとして、パウロはその器を持つ際に「汚れのない心と尊敬の念をもって」と言っています。ギリシャ語のもともとの単語は「汚れのない心」というネガティブな言い方ではなく「清さ」というもっと積極的な言い方です。
その「器」が意味するところが妻であれ、自分自身であれ、パウロはそれを清さと大切さをもって接するように勧めています。
自分であれ妻であれ、それを清いものとして大切に扱わないことこそが、みだらな生き方、情欲におぼれる生き方なのです。神から与えられた清いものを粗末に扱うことことこそが、人間をみだらなものにしているのだということを覚えたいと思います。