タイトル: 「聖霊のバプテスマ・異言・癒し」 ハンドルネーム・Ahahaさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・Ahahaさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
山下先生。わたしには「疑問」がありますので、それにぜひ簡潔に答えていただけませんか。「山下先生」というか「キリスト改革派教会」では「聖霊のバプテスマ」や「異言」や「病気のいやし」などのことをどのように考えておられるのか、わたしは知りたいのです。
おそらく、そのようなものに「触れたくない」とお考えなのだろうと思いますが、そのようなことは今でも実際に「起こる」とわたしは思っています。ですから、どうしてそういうことが今ではもう「起こらない」とお思いになられるのか、その理由をぜひお聞きしたいのです。よろしくお願いします。
Ahahaさん、いつも番組をきいてくださりありがとうございます。まず、結論から先に言わせていただくと世界の改革派教会、長老派教会に一致した見解があるという言うわけではありません。Ahahaさんと同じように異言などの聖霊の特別な賜物が今でもあるという見解の人もいれば、そういうものはもうないという見解の人もいます。
そういうものはもはや起らないという見解の立場の人たちは、こう考えています。まず、異言、癒しなどを聖霊の賜物と考えます。Ahahaさんが挙げているもののほかにも、コリントの信徒への手紙一の12章から14章までを読むと、他にもたくさんの聖霊の賜物について記されています。たとえば、第一コリント12章28節には「使徒、預言者、教師、奇跡を行う者、病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者など」、使徒やキリスト教会の教師も聖霊の賜物であると言われています。
異言や癒しの賜物が、今ではもう既に起らないと考える人たちは、聖霊の賜物はいつも、どの時代にも同じ数だけあるとは考えません。特に特別啓示と関連する賜物については、新約聖書が完結したことで、その必要性を失ったと考えます。
少なくともパウロが言っているように「預言は廃れ、異言はやむ」のですから(1コリント13:8)、どの時代にも聖霊の賜物としての「預言」や「異言」があるとは限りません。
では、どうしていくつかの特別な聖霊の賜物が現在は存在しないのか、という説明についてですが、先ほども少し触れたとおり、預言にしろ、奇跡にしろ、それは神がご自身の存在をお示しになるために特別に起こす事柄です。預言自体に意味があるのではなく、その語られたメッセージが神の存在を示すことが預言です。奇跡もただ不思議な出来事なのではなく、それによって神の存在を示すメッセージがキリスト教的な奇跡です。いずれにしてもそれらは聖霊の賜物によって与えられる特別な啓示として考えられることが出来ます。
さて、そうした神の特別な啓示は御子イエス・キリストの出現をもって頂点に達します。ヘブライ人への手紙1章1節2節にはそのことについて、こう記されています。
「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」
つまり、神の言葉である御子イエス・キリストは啓示の頂点であり、最終段階なのです。新約聖書は神の特別な啓示として、このキリストの教えと救いの御業を蓄える文書です。従って、この最終的な神の啓示の文書が出現した以上、救いに必要な神とその御旨についての知識は、聖書によって必要十分に与えられるので、もはや特別な啓示はこれ以上必要ないというこなのです。
異言や癒しの「聖霊の賜物」がもはや存在する必要性を失ったために、現に存在しないのだと考える人たちは、この特別な啓示の終結と、ある種の「聖霊の賜物」の活動との関連をリンクさせて考えるわけです。つまり、救いに関わるすべての知識は聖書の中に必要十分に語られているのですから、預言や異言や奇跡によって、それ以上何かを得る必要がなくなったと考えるわけです。
もっとも、「異言」や「癒し」に関しての反対論は、これ以外の説明もあります。まず、一番大きな問題は、用語そのものの問題があります。聖書がいっている「異言」とは何か、実は誰も知りません。確かにコリントの信徒への手紙には「異言」がどんなものであるのか、おぼろげには書いてあります。少なくとも、それが解釈を必要とする言語であることは間違いありません。しかし現代の「異言」と新約聖書に出てくる「異言」が同じものであることをどうやって証明するのでしょうか。ただ、恍惚状態で語られた意味不明の言語を「異言」と単純に同一視できるのかどうか、難しい問題があります。
「癒し」に関しても、用語の問題があります。病気が癒されることは、昔も、今もあることです。その癒しが通常のプロセスを経て起るものもあれば、通常は説明ができないようなプロセスを経て起る場合もあります。通常は説明できないプロセスの癒しがあることは、現実として医者も否めないものがあります。しかし、そういう癒しのすべてが聖書がいう聖霊の賜物としての「癒し」と考えてよいものなのか、どういう基準で判断するのでしょうか。
もし、Ahahaさんがおっしゃっている「異言」や癒し」という用語が、ただ単に「恍惚状態で語られる意味不明の言語」や「説明のつかない病気の治癒」ということに留まるのであれば、その存在を否定はしません。しかし、それが聖書が語っている聖霊の賜物としての「異言」や「癒し」というのであれば、それをどういう根拠で証明するのか、やはり無理があるような気がします。
最後に「聖霊のバプテスマ(洗礼)」についてですが、それを主張する人たちが、その言葉によって何を意味するのかということが問題だと思います。
通常、「聖霊のバプテスマ」と言う言葉を使う人たちは、父と子と聖霊の御名によって受ける水の洗礼とは別に、聖霊による洗礼があると考えています。とくに聖霊によるバプテスマは異言をはじめとする聖霊の賜物をもたらすものであると考えられています。
この論理を裏付けると思われる聖書の個所は三箇所だけです。いずれも使徒言行録の中に出てきますが、それらを組み合わせて考える時に、「聖霊のバプテスマ」が言おうとしている事柄を導き出せそうにも見えます。その三つの個所とは使徒言行録2章4節、8章16節、19章6節です。
もう時間がありませんので、詳しくは論じませんが、わたしも、洗礼と聖霊の働きが関連したものだと考えます。しかし、「聖霊のバプテスマ」という独特な考えではなくて、キリスト教会で授けられる普通の洗礼こそが、そこで聖霊が豊かに働いてくださる場なのだと信じています。