タイトル: 「未信者の演奏するキリスト教音楽って?」 長野県 ハンドルネーム・かりんさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は長野県にお住まいのハンドルネーム・かりんさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「こんにちは。山下先生お元気ですか? 長野のかりんです。お久しぶりです。
今日は日ごろ私が疑問に思っていることを信仰的にどう考えていったらよいのか教えていただきたくメールしました。私は最近あるコーラスグループに加わりました。コンサートを開くので練習にも熱が入り一生懸命皆さんについて行こうと頑張っています。取り組んでいる曲目の中には宗教曲もあります。
今までそのようなことにあまりこだわりを持たなかったのですが、教会のある姉妹は、一緒にコンサートを聴いたりする中で宗教曲やゴスペルは演奏する人が信仰をもっていてこそ意味がある、信仰の無い人たちがいくら音楽的に素晴らしい演奏をしたとしてもそれはただうわべだけのもの…と言います。
確かに私も演奏家本人が信仰を持つ人であれば本当に素晴らしいな、と思います。でも、日本はそうでない場合が多いです。でも、合唱をやっていれば宗教曲をうたってみたいと思う人はとても多いと思います。もちろん、歌う場合はその曲についていろいろ知ることは必要ですが、それで良いのではないかと思うのは間違っているでしょうか?
信仰を持たない人と信仰を持っている人をそんな風に差別的に見るのはどうかなと思います。今信仰をもたない状態にあるだけかも知れない、いつかその人が信仰に導かれる時が与えられるかもしれない…とは考えられないでしょうか? かつての私もそうであったように。所属しているグループのメンバーはほとんどノンクリスチャンです。そのようなことがあるので教会の姉妹にも私たちのコンサートを聴きにきて欲しいとなかなかいえないのです。山下先生のご意見をおききしたく思います。それではお答え待っています。」
かりんさん、メールありがとうございました。かんりんさんはコーラスグループに入られたんですね。グループの皆さんと共に素敵な演奏会となることができるといいですね。
さて、宗教曲をその宗教以外の人が演奏することについてですが、いろいろな考え方があるだろうなと思います。これは宗教音楽にかぎらず、文化圏が違う音楽を文化圏の違う演奏家が演奏できるのかという問題にも関係していると思います。
たとえば、西洋の演奏家が尺八と琴を使って「春の海」を演奏しているのを聴いて、違和感と言うか、とても不思議な気持ちになるという日本人の聴衆がいたとしてもおかしくはありません。そもそも日本人の感性を、日本の四季折々の中で長年暮らしたことのない西洋の演奏家が、果たしてどこまで理解できるのか、と思う人もいるでしょう。また、逆に、西洋人の目から見た日本の春の海を、その演奏を通して触れることができ、新鮮な気持ちで曲を聴きなおすことができると考える人もいるでしょう。どちらにも一理あって、どちらが正論であるか、簡単には決めることはできません。
これと似たことは、宗教音楽を演奏する場合にも言えます。もちろん、キリスト教音楽の場合、演奏者がクリスチャンであれば、演奏に際しての作品の理解度は全然違うと言うのは当たり前です。その演奏は音楽的な表現だけではなく、正に信仰の表明でもあるような演奏となることは間違いありません。
もっとも、演奏者の信仰を問題にするのであれば、当然、それを聴く聴衆の側の信仰も問題です。キリスト教音楽はクリスチャンの聴衆によってもっともよく理解されることは言うまでもないことです。
けれども、宗教音楽はその宗教を信じる演奏家と聴衆によってしか理解できない、あるいは、ある文化の音楽はその文化に属する人々によってしか正確に受け取れないのだとしたら、そもそも文化圏を越えて、宗教を越えて音楽が聴かれている現象をどう捉え、評価したらよいのでしょうか。
ただ単に理解の伴わない演奏家と聴衆によるむなしい演奏会と片付けてしまってよいのでしょうか。
確かに、一方では、信仰を持たない人が演奏した宗教音楽をとてもむなしく感じる時があります。特にそれが宗教行為の一環としてなされている場合にはそうです。たとえば、チャペル式の結婚式場にバイトとして雇われたノンクリスチャンのオルガニストや聖歌隊員が奏でる讃美歌が、その場のムードをどんなに高めたとしても、聴いている私にとっては、やはりむなしさを感じてしまいます。
そういう場合は別として、一般の演奏会で信仰を持たない人たちが演奏する宗教音楽をどう評価するのか、といえば、それはそれなりの意味があるように思います。宗教と言うのは人の内面と深くかかわりを持ったものです。特定の信仰を持たない人でも、内面に深く思うところをもって人生に向き合っているはずです。そして、そういった内面に深く思ったり感じたりすることは、民族や人種を越えて共通したものもたくさんあります。音楽が民族や文化圏を越えて人々の心に浸透していくのは、そういった内面に深く思うところの共感があるからでしょう。そういう人たちが、喜びや悲しみ、感謝、救いといった宗教のテーマをどう理解し表現するのかは、とても興味深い問題です。
音楽にしろ、美術にしろ、芸術というものは、そもそも人間の内面にある思いや人生観と深い関わりをもったものです。どんな演奏家も、作品にはただ音楽的な技巧という関心でだけ接しているわけではありません。いってみれば演奏活動を通して、その人自身を表現し、その人自身の作品の解釈が現れているのです。
キリスト教音楽の場合、信仰者の目から見れば、ノンクリスチャンの作品理解は受け入れがたいかもしれません。しかし、そういう演奏を意味がないと一蹴してしまうのではなくて、むしろ人間が共通して持つ人生のテーマについて、共感しあう絶好のチャンスとも言えるのではないかと思います。一つの作品を通して、お互いが心のうちに持っていることを分かち合い、理解しあえるのだとすれば、こんなに素晴らしい場と機会はないと思います。
それに、かりんさんのおっしゃる通り、キリスト教音楽やゴスペルを通して、キリストに出会うという可能性もゼロではないのですから、伝道という観点からも、ノンクリスチャンの人たちと一緒に演奏活動をすることは、決して無意味なことではありません。
かりんさんが住んでいらっしゃる地域は、とくにキリスト教に触れることがなかなかできない場所柄のようですから、こういう機会を積極的に活用するということも大切だと思います。どうぞ、せっかくのコーラスグループなのですから、消極的否定的にならないで、主が与えてくださった場所と確信して、ぜひ他の方々と共に演奏活動を楽しんでください。
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