おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書の一番最初の書物、創世記にはまるでドラマでも見るような人間模様が、あちらにもこちらにも記されています。もちろん、聖書が書かれたのは、ただある人物の人生を物語るためではありません。その人々の生きた歴史を通して、その人々とともにいてくださった神の御業を語るためです。
創世記の42章には、ある大家族の物語が記されています。一人の父親とその一二人の息子たちの話です。この父親の名前はヤコブ、その息子のうちの一人の名はヨセフといいました。このとき、ヨセフは家族から引き離されて行方不明になっていたのでした。兄たちの恨みを買ってエジプトに売り飛ばされていたからです。兄たちは口裏を合わせて、父のヤコブにはヨセフが野獣にかみ殺されたと嘘の報告をしていました。
そうとは知らない父ヤコブが背負ってきた悲しみはどれほど深かったでしょうか。もちろん、真実を知らされたとしても、子供たちのなしたことで心を痛めなかったはずはありません。
ヨセフがエジプトに売り飛ばされていることを知っていた兄たちも、しかし、ヨセフのその後のことまでは知る術もありません。兄たち一人一人が心に抱えていた良心の呵責も深いものがあったに違いありません。自分たちのなした悪事を忘れるほど彼らも徹底した悪人ではなかったのです。
他方、エジプトへ売られていったヨセフは、父や兄たちの与り知らぬところで、エジプトを支配するほどの大人物になっていました。しかし、そこに至るまでの十数年間に味わった苦しみは、並大抵のものではありませんでした。兄たちの仕打ちを恨んだこともあったでしょう。
こうして別れ別れに暮らしていた家族が、もう一度再会することができるなどとは、当の本人たちも予想していなかったことでした。
人間の目から見ればたまたまその地方を襲った飢饉が、この者たちを再び引き合わせるきっかけとなったのです。もちろん、そのことが起ったのは、神の深いご計画によるものです。今やエジプトの支配を任されていたヨセフのところには、飢饉の時にも十分な食料がありました。
この噂はやがて父や兄たちの耳にも入ります。もちろん、ヨセフのことは知りません。そうとは知らずに、食料を求めて兄たちはヨセフのもとに訪れるのです。ヨセフはすぐに兄たちのことに気がつきました。けれども、すぐに自分のことは明かしません。兄たちをまるでスパイのように扱い、厳しく問い詰めます。
このとき兄たちは弟のヨセフだとは気づかずに互いにこう言いました。
「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」
この言葉はこの十数年間兄たちの心にいつも重くのしかかってきた事柄だったのでしょう。償おうにも償うことのできない罪、赦されようにも赦されることのできない罪、そのことで兄たちの心の奥底にはずっと苦しむものがあったのです。
この越えられない壁を越えて、真の和解をもたらすことができるのは、ただ神のくすしい導きによるのです。わたしたちの人生のドラマには、わたしたちの手によっては解決できないことがたくさんあります。しかし、この人生に伴ってくださり、すべてを希望へと導いて下さるお方がいらっしゃいます。そのお方にすべてを委ねる時に、心に背負った苦しみから解放されるのです。