おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書の創世記の中に記されたヨセフという人物のお話は、読んでいて様々のことを考えさせられます。ヨセフその人の数奇な人生もさることながら、その父や兄弟たちが歩んできた人生も決してさらりとは読み流せない重たいものがあります。
さて、創世記の44章にはヨセフのもとを訪ねて、パレスチナからエジプトにやってきたヨセフの兄弟たちのことが記されています。兄弟たちは自分たちがかつてエジプトに売り飛ばしたヨセフが、自分たちの目の前に現れている人物だとは知りもしませんでした。ただ、飢饉の飢えをしのぐために、食料豊かなエジプトに二度も足を運んできたのです。しかも、この二度目の訪問の時には、一番末の弟も一緒でした。
ヨセフはあえてまだ自分の身分を明かしません。それどころか、食料を買って帰る彼らの荷物の中に、こっそりと銀の杯を隠して、泥棒の濡れ衣を着せようとします。しかも、一番末の弟の荷物の中に銀の杯を忍ばせたのです。ヨセフがこんな非道なことをしたのには何か考えがあってのことでした。それが何であるかははっきりとは記されていません。ただ、はっきりしていることは、一番末の弟はヨセフと同じ母の子供だったということです。かつてヨセフをエジプトに売り飛ばした他の兄弟たちは、ヨセフとも末の弟とも母親の違う兄弟たちでした。
ヨセフは他の兄たちが、母親の違う末の弟を本当に慈しむ思いを持っているのか試そうとしたのかもしれません。かつて、母親の違う自分をエジプトに売り飛ばした兄たちのことですから、末の弟の危機に際して、あっさりと弟を見捨ててしまうかもしれません。それでは、兄たちはこの十数年間に何も反省もせず、何の進歩もなかったことになってしまいます。ヨセフはそれを知りたかったのでしょう。
泥棒の濡れ衣を着せられた末の弟をかばって、四男のユダが口を開きます。このユダは昔ヨセフをエジプト人に売り飛ばすことを提案した張本人です。そして、今回、父の反対にもかかわらず、末の弟をエジプトに連れてくることを強く父親に説得した人物です。
そのユダがヨセフに対して末の弟のためにどんな申し開きをするのかと思いきや、ユダが口にしたのは申し開きの言葉ではありませんでした。「神が僕どもの罪を暴かれたのです」と罪の告白をしたのです。
いったい神がどんな罪を暴かれたのか、ユダの発言には唐突な印象を覚えます。弟のために身の潔白を主張することも十分出来たはずです。しかし、ユダの心の中ではすべてが繋がっていたのです。ここでは客観的にユダの罪が神によってどう暴かれたかどうかと言うことが問題なのではありません。ユダが自分の今までの人生をどう考え、今起っていることをどう捉えているかが問題なのです。ユダはすべての事情を話しながら、故郷で自分たちの帰りを待つ父の悲しみについても触れます。もし、末の弟を連れ帰らないならば、自分たちは「白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです」とさえ言い切ります。ヨセフがいなくなったことでこの十数年間悲嘆に暮れていた父の姿をずっと見たきたからでしょう。ヨセフを失った父の悲しみも、もとはといえば自分が企んだ悪事の結果なのです。そして、ユダはついに自分が兄弟たちの身代わりになるから、末の弟を赦して欲しいとさえ願い出ます。ここにはユダの心のうちからの気持ちが現れています。もし、ユダに神を畏れる気持ちが育っていなかったならば、そんな決断は出来なかったことでしょう。
神は長い年月をかけて、罪人であるわたしたちの心のうちに神を畏れる思いを育ててくださるのです。わたしたちも、人生をそのように神によって育てていただきましょう。