メッセージ: 不法の者、滅びの子(2テサロニケ2:3-4)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
ことわざの中に「木を見て森を見ない」というのがあります。同じような言い回しには「鹿を逐う者は山を見ず」というのもあります。あまり細かいことに気をとられて、全体を見失ってしまうようなものの見方に対する忠告です。
聖書を読むときにも、時として、あまりにも細かい読み方をして、全体を見失ってしまうことがあります。特に世の終わりについての聖書の記述を読むときには、汲めども尽きない好奇心が先立ってしまい、聖書が言おうとしている以上の事を知ろうとして、結局聖書のメッセージを聞きそびれてしまうことがあります。
きょう取り上げようとしている個所は正にそういう危険の潜む個所です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙二 2章3節と4節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。
前回の学びで取り上げましたが、テサロニケの教会には「主の日は既に来てしまったかのように言う者」がいて、教会員たちに少なからぬ動揺を与えていたようです。そうしたテサロニケの教会の信徒たちの心が揺れ動くのを少しでも静めるために、パウロは筆を進めています。
ここでパウロが意図していることを正しく理解するためには、少なくとも二章全体を視野の中に入れながら読まなければなりません。ただ、ここでの学びでは、時間の制約がありますので、かなり細切れに区切って取り上げています。決して重箱の隅をつつくような読み方をしようとしているわけではありません。
先ずはじめに、ざっと二章の流れを読んでみると、「主の日は既に来てしまった」という間違った主張にテサロニケの信徒たちの心が動揺しないようにと、パウロはこの間違った主張に対して、正面からその主張が誤ったものであることを指摘します。
何故、まだ主の日が来ていないと言えるのか、パウロは二つのことを述べます。その一つがきょう取り上げた個所に記された事柄です。つまり、主の日の到来に先立って起るべきことが、まだ起っていないからというものです。
では、主の日に先立つ出来事とはどんなことであるのか、というと、パウロはこう記しています。
「まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。」
主の日が到来する前に起るべき、反逆もなければ、不法の者すなわち滅びの子の出現もないのですから、当然、主の日が到来したという主張には問題が生じます。
何故、まだ主の日が来ていないと言えるのか、パウロが述べたもう一つの点は、来週取り上げる個所に記されていることですが、そのように滅びの子がまだ出現しないのには、必然的な理由があるということです。その必然的な理由と言うのは、滅びの子の出現を抑制しているものがあるということなのです。つまり、滅びの子が現に出現していないという現実から考えてみても、また、滅びの子が出現できないでいる理由を考えてみても、「主の日が既に来ている」という主張には根本的な問題があるということなのです。
さて、ここまでの流れ…間違った教えを論駁しようとするこのパウロの主張の流れに関しては、非常に分かりやすいということができると思います。しかし、パウロがここで言っている細かな点に関して目を留め始めると、たちまちパウロの言おうとしていることが見えなくなってきてしまいます。
例えば、パウロはここで、主の日が到来するまでの順序をこう考えていることがわかります。つまり、先ず「反逆」が起るということです。いったい、ここでいう「反逆」とは何のことでしょうか。ギリシャ語では「アポスタシア」という言葉が使われています。この単語は「背教」を意味する英語の単語apostacyの語源になる言葉ですが、もともとの意味は「離れて立つ」と言うことです。政治的な意味に取れば「反逆」と言うことでしょう。しかし、宗教的な意味に取れば「背教」ということになります。パウロはいったいどちらの意味でそれを言っていたのでしょうか。仮に宗教的な意味での「背教」と取った場合、それはユダヤ人が神から離れていくという意味でしょうか、それとも、クリスチャンがキリスト教から離れていくという意味でしょうか。この「反逆」に関してパウロは具体的なことについては何も語っていません。
さらに、その「反逆」に続いて到来するとされる人物「不法の者、滅びの子」が具体的に誰を指しているのかとなると、なお一層難しい問題が潜んでいます。わたしたちにわかっていることは、その人物はこの手紙が書かれた時点で、未だ到来していないということです。ただ、その人物が「すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言する」、そういう者であることははっきりしています。ただし、果たして、それが歴史上の人物なのか、それとも人格化された何かの力なのか、それすらはっきりしません。
果たして、そのような人物が既にあの手紙が書かれてからあと、歴史の中に出現したのかどうか、わたしたちの好奇心はそのことを知りたがるかもしれません。
けれども、パウロがここで「不法の者、滅びの子」に言及しているのは、それが誰であるのかをここでもう一度おさらいするためではなかったことは確かです。二章を先に読み進めていくときに明らかになるように、パウロには「不法の者、滅びの子」に対する関心よりも、テサロニケの信徒への関心の方がもっと重要でした。なぜなら、パウロにといってテサロニケの信徒は「救われるべき者の初穂として」神に選ばれた者たちだからです。
パウロはきょうお読みした個所の最初でこう書き記しました。
「だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません」
この個所を読むときに「不法の者、滅びの子」に好奇心を抱くのではなく、むしろ、ややもすれば簡単に騙されてしまいやすい自分たちの信仰的な姿勢にこそ、最大の注意と関心を寄せる必要があるのではないでしょうか。