聖書を開こう 2005年3月17日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 怠惰に関する使徒の模範(2テサロニケ3:6-9)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 以前、別の番組で「怠けることはいいことではないか」という質問を受けたことがありました。わたしの知る限り、聖書の中で「怠惰」を賞賛したり勧めたりしている個所はありません。もちろん、適当な休みを取ること、余暇を楽しむことを聖書が禁じているということではありません。まして、仕事一辺倒な生き方を素晴らしい生き方だといっているのでもありません。しかし、それだからといって、「怠けることはいいことだ」と聖書が勧めているのだと履き違えてはなりません。

 きょうの聖書の個所は教会内の「怠惰な者たち」に対して、どういう態度を取るべきか教えられています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙二 3章6節から9節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。

 パウロはテサロニケの信徒への手紙二を結ぶに当たって、「怠惰」に関する教えを記しています。それも、かなりきつい口調で怠惰を戒める言葉を記しているのです。

 そもそも、何故怠惰な者たちがテサロニケの教会にいたのかということに関して、少し考えてみる必要があるかもしれません。この世の常識から考えても、怠惰であるということは、望ましいことではありません。仕事をせずに怠惰な日々を送れば、普通は生活そのものが成り立たなくなってしまいます。それでも、何の気後れもせずに怠惰な生活を続けることができるのだとすれば、三つぐらいの可能性しか考えることができません。一つにはその人たちが経済的に働く必要がないほどの資産家であったからです。しかし、パウロの筆ぶりからみると、テサロニケの教会を悩ましていた怠惰な人たちは、経済的に自立していた人とは思えません。怠けた結果の窮乏を他人の援助で穴埋めしようと考えていたような人々です。

 そうすると、働かなければ自分では経済的に自立できないのに、なお、怠惰でいることが出来たのは何故かと考えると、あと残された可能性は二つです。

 その一つは、貧しい人々に対するテサロニケの教会のシステムが非常によく整いすぎていたということです。その結果、本来支えなければならない貧しい人たち以外にも、ただ単に怠けていて貧しい人たちまでも支えてしまっていたということがあったのかもしれません。そのために、教会の援助に甘えて、働けるのに働かない怠惰な人々がのさばっていたのかもしれません。

 きょうお読みした3章6節でパウロは「怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい」と命じています。また、来週取り上げる予定の個所でも「その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい」ときつく命じています。こうした言葉の背景には、テサロニケの教会が怠惰な人々と関わりすぎてきたということがあったのかもしれません。

 もう一つ考えられる可能性は、この怠惰な人々が間違った信仰の確信に基づいて行動を取っていたということです。二章で見てきたように、テサロニケの教会を襲った間違った教えに、「主の日はすでに来てしまった」という熱狂的な教えがありました。「主の日」つまり「世の終わり」が既に来てしまったのですから、もう働くことに意味がないと考えていた人がいたのでしょう。もちろん、パウロが今まで口をすっぱくして手紙の中で書いてきた通り、その教え自体が間違っているのですから、それに踊らされることがあってはなりません。

 さて、どういう理由でテサロニケの教会に怠惰な人々が存在するようになったのかは、今述べてきた事情がもっとも考えられる理由なのですが、それに対してパウロはどういう具体策をとったのでしょうか。

 パウロは教会内にある二つのグループ、つまり実際に怠惰な生活を送っている人たちと、そうでない人々に、それぞれ命じています。

 パウロはまず怠惰でない人々に対して、怠惰な者たちを避けるようにと命じています。もちろん、先を読むと分かるのですが、パウロが命じているのは、これらの怠惰な兄弟たちを教会から追い出してしまいなさいということではありません。来週取り上げる予定の15節にはこう記されています。

 「しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい」

 「怠惰な者たちを避けるように」というパウロの命令は、二つの効果を狙ってのことでしょう。一つは、怠惰な者たちに影響されて、残りの者たちも怠惰な生き方に陥ってしまわないためです。人間というのは楽なものの方へと流れたがるものです。パウロは毅然として「怠惰な者たちを避けるように」と命じます。

 もう一つ考えられるのは、教会が「怠惰な者たち」にいつまでも関わりをもって支えてしまうと、結局はそのような生き方を教会が是認しているという誤解を生んでしまいます。そうならないためにも、毅然とした態度で怠惰な者たちを避ける必要があるのです。

 そのように一方では怠惰な者たちを避けるようにと命じながら、他方でパウロは、使徒である自分たちの模範に倣うようにと勧めます。

 その模範とは、だれからもパンをただでもらって食べたりせず、むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたということでした。

 もちろん、テサロニケの教会の人たちのほとんどは、すでに使徒たちの模範に歩んでいた人たちでした。ですから、パウロは自分たちの模範に倣うようにと勧める時に、「あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています」と確認しています。

 働くことができる能力が与えられている限り、自分の手で得た収入によって生活することは、クリスチャンとして言うまでもないことなのです。

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