メッセージ: いついかなる場合にも平和を(2テサロニケ3:16-18)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
今まで3ヶ月間にわたって取り上げてきたテサロニケの信徒への手紙二の学びも、きょうで最後となります。短い手紙でしたので、あっという間の学びでしたが、きょうは最後の結びの言葉に目を留めて最後までしっかりと学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙二 3章16節から18節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印です。わたしはこのように書きます。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。
テサロニケの信徒への手紙二の結びの言葉は、三つの事柄から成り立っています。一つは平和を求める祈りの言葉。もう一つは、パウロが自分の手で記した挨拶。それから、キリストの恵みを願う言葉の三つです。
結びの部分に平和を願う祈りがでてくるのは、パウロの書いたほかの手紙にも例があります。例えばガラテヤの信徒への手紙やエフェソの信徒への手紙がそうです。パウロが書いた大抵の手紙では、手紙の書き出しの部分に平和を祈る言葉が記されています。しかし手紙の書き出しと結びの両方に平和を祈り求める言葉を記しているのは、その中でも数通の手紙に限られます。
また、手紙の末尾付近で神を「平和の神」あるいは「平和の主」として呼びかけている例も、他の手紙の中に何通か見受けられます。例えばコリントの信徒への第二の手紙やテサロニケの信徒への第一の手紙がそうです。しかし、平和の主である神を呼んで、「あなたがたに平和があるように」と祈るのはテサロニケの信徒への第二の手紙だけです。
さらに、その平和が「いつ、いかなる場合にも」与えられるようにと願うのもテサロニケの信徒への第二の手紙だけです。これほど完璧といってよいくらい、テサロニケの信徒への第二の手紙では、はじめと終わりに主の平和が祈り求められています。
テサロニケの教会は内にも外にも様々な問題に直面していました。第一章を読めば、そこには迫害と苦しみの中で忍耐しているテサロニケの教会の様子が記されていました。また第二章には主の日が既に来てしまったと言いふらして、教会を混乱させる者たちもいました。さらに、第三章には教会の中には怠惰な暮らしをして、自分で自分の生活を営もうとしない者たちもいました。現在直面している問題が片方にありながら、将来、主の日がやってくるときには、不法の者、滅びの子が現れて神に対するもっと大きな反逆が起るとも言われていました。こうした事柄を前に、パウロは手紙を結ぶに当たって切なる思いで「いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように」と平和の主に祈っています。もちろん、こう祈るパウロの心は不安でいっぱいだったのではありません。そうではなく、パウロの心に平安を与え、パウロを平和のうちに守って下さっている平和の主に信頼して、パウロはテサロニケの教会にもいついかなる場合でも平和があるようにと祈っているのです。
ところで平和の主から平和が与えられるようにとの祈りは、平和の主ご自身が共にいてくださるようにとの祈りと並んで記されています。主が共に歩んでくださるとき、平和がわたしたちに伴います。主イエスを身近に感じ、主がわたしたちを見捨てることなく共にに歩んでくださることを信じる時に、溢れるばかりの平和で満たされるのです。
さて、二番目にパウロが記している結びの言葉は、自分の手で記した挨拶の言葉です。パウロは手紙を書くときに、口述筆記させていたようです。ですから、厳密な意味でパウロの直筆の手紙と言うのは、ないのかもしれません。しかし、最後の挨拶だけは自分の手で書いたようです。17節には、パウロはどの手紙にも自分の手で挨拶を記していると書いています。けれども、実際には、現在パウロの手紙として知られている13通の手紙の中で、パウロが自分の手で挨拶の言葉を最後に記しているのは、限られた数通の手紙だけです。しかも、自分の手で挨拶を記すときに、わざわざ「これはどの手紙にも記す印です」と断っているのはテサロニケの第二の手紙だけです。しかも、第二の手紙の直前に書かれたと思われるテサロニケの第一の手紙には、そのようなパウロの直筆部分はありません。とすれば、パウロがわざわざ手ずから筆をとって書き記し、わざわざ「これはどの手紙にも記す印です」と断り書きを添えているのには、それ相当の理由があったのでしょう。
考えてもみれば、二章のところに、パウロたちから出た手紙だと偽って「主の日は既に来てしまっている」といいふらしている者たちがいた、ということが記されています。そういうこともあって、パウロは自分で筆を取り、自分で挨拶の言葉を記し、念を押すように「これはどの手紙にも記す印です」と記しているのでしょう。
さて、最後にいよいよ結びの言葉としてパウロが記しているのは、主イエス・キリストの恵みが共にあるようにという祈りの言葉です。確かに、この祈りの言葉こそ、どの手紙の末尾によく出てくる決まりきった言葉です。しかし、この言葉をただの挨拶の言葉として、軽く受け流してはいけません。パウロはこの手紙を結ぶに当たって「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように」と記しているのです。「あなたがた一同」という「一同」の中には、テサロニケの教会の中で怠惰な暮らしを送っていた者たちも含まれます。パウロはこの手紙の中で、一方では、そういう怠惰な人から離れなさいと他の兄弟たちに命じていましたが、他方では、「その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい」と命じました。
今、パウロはこの手紙を結ぶに当たって、怠惰な兄弟たちを敵対として扱うのではなく、同じ教会に連なる兄弟として、この者たちをも含めて、「あなたがた一同」と共に主イエス・キリストの恵みがあるようにと願っているのです。
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