おはようございます。山下正雄です。
「人間とは社会的動物である」と言ったのはギリシアの哲学者アリストテレスです。なるほど、人間とは人間との関係の中で生きていく動物です。人は社会の中で人との触れあいの中で人格が形作られ、成長していくものです。
人との関係の中で生きていくのですから、好むと好まざるとにかかわりなく良い影響も悪い影響も受けます。心地よい人間関係の中に生きているときには、自分が愛され受け容れられていることが実感できます。安心して自分自身を形成していくことができます。自信も身についてきます。しかし、居心地の悪い人間関係の中では、自分が否定されているように感じ自信を失っていきます。その反発から相手を否定することで自信や安心を得ようとしたりもします。もし、それができないときには自分の存在の意義を見失ってしまうことすらあります。
聖書が教える人間像からいうと、罪深い人間が形作る社会にはどうしても心地よくない人間関係が生まれ、ネガティブな影響で悪循環が起ります。人間はこの悪循環の被害者であり、同時に加害者なのです。被害者であり同時に加害者である人間が互いに影響を及ぼしあって人格を形作っていくのです。もちろん、神の恵みもそこに作用するわけですから、常に悪循環しかない社会に人間が生きているわけではありません。けれども、一旦、悪循環の歯車が回り始めると、相手を赦したり受け容れたりすることができなくなってしまうのが人間です。
それならば、人間が社会的動物であることをやめてしまえば、問題は何も起らないと思うかもしれません。しかし、現実的に考えて、誰とも関係を持たないで暮らすことは人間には不可能です。結婚もしない家庭も築かなければ、あっという間に人類そのものが滅亡してしまいます。また現実問題以前に、人をお造りになった神ご自身が「人が一人でいるのは良くない」とおっしゃって、人を男と女に造り、社会を形成するようにされたのです。ですから、人間が社会的な生き物であることをやめることは人間そのものをやめてしまうのと同じで、問題の解決にはならないのです。
では、社会的動物であることをやめないで、しかも悪循環の連鎖を断ち切り、ネガティブな影響を克服していくにはどうしたらよいのでしょうか。どうすれば、相手を受け容れたり赦したりすることができるのでしょうか。
それには、人間をお造りになった神に向き合うことです。具体的には神の御心が余すところなく記された聖書に向き合うことです。この聖書の中で語っておられる神は、わたしたちを意義あるものとしてお造りになったお方です。神は何よりもまずわたしたちを受け容れてくださるお方です。もちろん、罪を憎まれますが、罪を犯す弱いわたしたちをキリストを通して赦し受け容れてくださるお方です。この神に向き合い、神から注がれる愛の中に生きるときに、自分自身の存在を意義あるものとして受けとめる事ができるようになるのです。
そのとき、他者からのネガティブな態度や言葉は自分自身にとって意味を失ってきます。自分に対する正当な批判は批判として聞き入れる心の余裕が与えられます。度を過ぎた言葉や意味のない批判に対しては、それを意味のないこととしてやり過ごすことができる余裕が出てきます。また、そのようなことを口にする人の弱さや虚勢を受け止めることができるようになるのです。
誰かを赦せないということは、結局はその人との関係の支配の中にいつまでも自分を置いていることなのです。自分を受けとめてくださる神の愛だけがこの支配関係からわたしたちを解き放ってくださるのです。