ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
イエス・キリストに対する歴史的な興味というのは、クリスチャンであれば当然わいてくるものです。福音書一つとって考えて見てもそうです。最初に書かれたといわれるマルコによる福音書は、大人になったイエス・キリストのことから書き起こしているのに対して、後から書かれたマタイ福音書もルカ福音書のその歴史をさらにさかのぼって、イエスの誕生にまで興味を広げています。
そうした歴史的な興味は、キリスト伝をどこまで描けるのだろうかという真面目な研究を生み出して来ました。しかし、その行き着いた先は、残念ながら真面目な信仰者の気持ちを少なからず逆なでするものでした。歴史のイエスと信仰のキリストが完全に分離してしまったといってもよいものです。つまり、初代の教会が信じ宣べ伝えた信仰のキリストと、ナザレで実際に活躍した歴史上のイエスとはまったく違うというのです。少なくとも、歴史のイエスにはたどり着くことができないというのです。せいぜいたどり着けるとしても、それは初代教会の信仰が生み出したキリスト像に過ぎないというものです。
その議論からすると、きょう取り上げる箇所はまさに信仰のキリスト像ということになってしまうのでしょうか。
まさにそのとおりだとしても、この聖書に書かれているイエス・キリスト以外に私たちは知りえないのですから、とにかくあるがままに福音書のイエス・キリストを読み進めて行きたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 20章17節から28節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
今、お読みした箇所はだいたい三つにわけることができます。まずはじめに、イエス・キリストによる十字架と復活の予告がなされます。それに続いて、ヤコブとヨハネの母親がイエスに息子たちのことで願い事を伝えます。最後に、それに対してイエス・キリストは何のために神のもとから遣わされて来たのかが述べられます。イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」