タイトル: 伝道とは何ですか? 山口県 K・Sさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は山口県にお住まいのK・Sさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも番組を聴かせていただいています。
早速ですが、わたしの日ごろの疑問に答えていただけたら幸いです。
伝道とは何かということが、最近よく分からなくなってきました。こんなことを言っては失礼ですが、都会に住んでいらっしゃる山下先生にはあまりピンとこないかもしれませんが、地方におりますわたしたちの教会の様子は惨憺たるものです。若者はどんどん都会へ出て行き、教会の高齢化は一気に進み、どこの教会へ行っても伝道が停滞しているということを耳にします。
確かに高齢化が急速に進んでいるのは教会だけの問題ではありません。地域社会全体がそうです。しかし、だからといって今の教会の現状が仕方のないことだとは言い切れません。どこの教会へ行っても必死で伝道のことを考え、次の世代を担う人たちを何とか確保したいと考えています。
しかし、現実はわたしたちの願いとは裏腹に伝道は遅々として進まないのです。こんな状況の中で何だか空しい気持ちと共に、伝道って何なのだろうという思いがしています。都会の教会は伸びないとはいってもそれなりの人が集まり、伝道の成果も上がっているようです。わたしたち地方の教会の伝道は停滞していると率直に認めざるを得ません。
わたしたちだって伝道していないわけではありません。それなら、結果を出せといわれればそれまでですが…。
そうすると、やはり自分たちのやっている伝道はどこか間違っているということでしょうか。伝道とは何なのか、そして、伝道とは何によって評価されるべきなのでしょうか、教えてください。よろしくお願いします」
K・Sさん、お便りありがとうございました。わたしも昔、茨城県で伝道していたことがあります。11年間教会の牧師として働いていました。わたしの能力不足もあったかもしれませんが、田舎で人を集めるのは容易なことではありませんでした。特別な集会で人が来てくれても、その中から礼拝に出席して洗礼を受けるようになるということは、本当に数えるくらいです。おまけにせっかく教会員になっても転勤で離れていってしまうことも少なくありません。そんな経験をしましたので、K・Sさんのおっしゃることは痛いほどよく分かります。
では、都会の教会は伝道が楽かといえば、それがそうでもありません。確かに新しい人が来るという点では、田舎の教会とは比べものになりません。黙っていても新しい人が来ます。ただ、その人たちがみんな教会員になってくれるかというとそうでもありません。都会には地方よりもたくさんの教会がありますから、教会を渡り歩く人の数も多いのです。それから、転勤などの異動のために出入りする人の数は、これもまた地方の教会よりも変動が激しいところもあります。ただ、そうした点はあるにしても、長い目で見ると幾らか増加の傾向にあるというのも事実です。ただし、この10年ぐらいはかつての時代と比べてやはり人数の伸びが鈍ってきているのも確かです。
さて、こうした人数の伸び悩みや、お便りの中にも出てきた「教会の高齢化」の問題もあって、最近は「伝道の停滞」という言葉を耳にしたり、伝道についての取り組みをもう一度考えようとする動きが見え始めています。確かに現実の問題として教会員が減少して、近い将来の教会の存続が危ぶまれるということが、伝道についての関心を高めるきっかけであることは否定しません。しかし、教会の存続のために伝道をするというのは、どうも本末が転倒しているように感じるのです。伝道は教会の存続のためにするものなのでしょうか。逆にいえば、教会が若者にあふれ、経済的にもいつも充実して、教会の存続問題など心配する必要がなければ、伝道のことなど考える必要はないのでしょうか。そんなことはないはずです。
ところが、そうではないといいつつも、「伝道の停滞」という言葉が示しているように、教会に集まる人の数の問題が伝道を語るときにいつもついて回っているのです。教会が以前と比べて伝道しなくなってしまったとしたら、それは文字通り「伝道の停滞」というべきでしょう。しかし実際には伝道しない教会というのはありえないことです。わたしの想像ですが、K・Sさんの教会では以前にもまして伝道を一所懸命しているのではないでしょうか。そういう熱心な地方の教会の伝道を、数の上で効果のあがらない伝道だからといって「伝道が停滞している」と評価してしまうのは、伝道そのものの捉え方がどこかおかしいのだと思います。まるでこの世の会社が支店を全国展開してたくさんの人を集めてたくさんの収益をあげることと同じように教会の伝道のことを考えてはいないでしょうか。
そもそも「伝道」という言葉そのものは聖書の中に出てきませんが、復活のイエス・キリストが弟子たちに命じた言葉…「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」というこの言葉こそ、伝道の本質を語るものです。伝道とはすべての民をキリストの弟子とすることです。
「すべての」というのは必ずしも全員という意味ではありません。ユダヤ人に限らずすべての民族にという意味です。ですから、全員が信じるまで数を増やせという数の問題ではないのです。ある特定の民族に限らず全世界を対象として、キリストの弟子を生み出すこと、これが伝道なのです。伝道の結果生まれるのはまことの弟子かそうでないかという違いです。あるいはまことの教会かそうでないかという違いです。伝道の結果まことの弟子が生まれ、まことの教会が生まれるなら、それは大きな伝道の前進です。しかし、人はいっぱい集まってもまことの弟子が育たず、まことの教会が作られないならば、それこそ伝道の停滞です。地方の教会は集まる人数が少ないので、それはまことの教会とはいえないのでしょうか。そんなことはありません。地方の小さな教会であっても今も昔も真の教会を建てあげようとしてすべての民に福音を語り弟子としているはずです。
また聖書は伝道についてこうも言っています。
「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(1ペトロ2:9)
つまり、神が成し遂げてくださった驚くべき救いの御業を広く伝えることこそが伝道なのです。そして、そのために神の民は存在するのです。ですから神の民が黙ってしまったら伝道は停滞してしまいます。しかし、そうでなければ伝道はいつもなされているはずなのです。
人々の心に届くようにどのように神の救いの業を伝えるのか、その方法は時と場合によっていろいろ工夫すべきでしょう。しかし、わたしたちの工夫次第で必ず福音が心に届くと思い上がってもいけないのです。時が良くても悪くても謙虚に語りつづけることが大切です。なぜなら、救い恵みを広く伝えるためにわたしたちは召されているからです。
そうだとすれば、数を気にして気持ちが停滞し、黙ってしまうことこそ伝道の停滞に繋がってしまうのではないでしょうか。
数の結果に惑わされることなく、まことの教会を建てあげることができるように、時が良くても悪くても救いの恵みを語りつづけることができますように、K・Sさんのために、また教会のためにお祈りしたいと思います。
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