タイトル: 『互いに愛し合う』という掟について ハンドルネームYuukoさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームYuukoさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「こんにちは。いつも番組を楽しみにしています。
わたしは、いろいろあって、人間不信気味なのです。今まで、人間を信用して、裏切られなかったことはありません。だから、裏切らないのは神様だけ、神様だけを信頼して生きていこう、と思っています。
でも、心にひっかかることがあるのです。それは、イエス様の『あなたがたは、互いに愛し合いなさい』という御言葉です。この御言葉は、感情的な愛ではなく、神様に愛されているわたしたちが、互いに支え合い、信頼し合って生きていくことを命じているように思えます。そうだとすれば、『わたしには神様だけ』という生き方では、いけないような気がするのです。
でも、現実に目を向けてみれば、教会の中でさえ、人を信頼するのは、とても難しいことです。やはり人間はアテにできない、頼れるのは神様だけ、という結論になってしまいます。
この現実と、『互いに愛し合いなさい』という掟とは、どう折り合いをつければいいのでしょうか?アドバイスをいただければ幸いです。よろしくお願いします。」
Yuukoさん、掲示板への書き込み、ありがとうございました。ご質問を読ませていただいて、Yuukoさんがほんとうに真摯に生きようとしている姿を感じ取らせていただきました。
確かにクリスチャンの間ではしばしば「人を見ていれば躓くだけなので、神様を見上げて神様だけを信じて生きるように」というアドバイスを耳にします。なるほどそのアドバイスにも一理あります。人を見ていれば躓くだけかどうかは知りませんが、少なくとも神様は裏切らないお方、誠実なお方であることは間違いありません。神様を見上げて歩むことは自分自身をしっかりと保つ上で大切なことです。
しかし、もし本当に神様だけを見上げて歩んでいれば良いのだとすれば、どうして聖書の神は人々を教会へと招かれたのでしょうか。特に聖書では教会はキリストの体であるといわれています。一人一人に違った賜物が与えられ、一人一人が他の人を必要とし、互いに支えあって一つの体を作り上げているのです。それが教会の姿です(1コリント12:14以下)。ですから、一つの体なる教会を造り上げるようにと招いてくださった神は、ただ一人一人が神と繋がってさえいればよい、とお思いになっていらっしゃるとは考えられません。
また、ご質問の中にも出て来ましたが、イエス・キリストご自身が弟子たちに命じられたことは「互いに愛し合う」ということでした(ヨハネ13:34)。それはまさに体なる教会を建て上げていくときに欠かすことのできない教えです。パウロがコリントの信徒への手紙一の12章14節以下で書いているように、目が手に向かって「お前は要らない」などと愛のないことを言い始めたら、それこそ教会は一つの体として成り立っていくことはできなくなってしまいます。
ところで、イエス・キリストが「あなたがたは、互いに愛し合いなさい」とおっしゃったのは、最後の晩餐の席上でした。ヨハネによる福音書の14章34節にその言葉が記されています。その言葉の前後をよく読むと、イエス・キリストはこうおっしゃったのです。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
注目すべき点は「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉です。イエス様はご自分が弟子たちを愛されたように、それを模範として弟子たちが互いに愛するようになることを期待していらっしゃるのです。
では、イエス様はどのように弟子たちを愛されたのでしょうか。最後の晩餐の記事を記しているヨハネ福音書13章は出だしでこう語っています。
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」
イエス・キリストの愛は裏切り者イスカリオテのユダには注がれなかったのではありません。ユダに対してさえもキリストの愛は誠実に貫かれるのです。イエス・キリストがわたしたちへの愛を注がれるのは、わたしたちが裏切らない誠実な人間だからではありません。むしろ裏切ることを知っていても、それでもその愛を貫き通し、ヨハネが言っているように「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」のです。
わたしたちがこのキリストの愛を実現できるとは思えません。しかし、神が望んでいらっしゃることは、キリストの愛に生きるようになることです。自分の弱さや他人の弱さを理由に、もはや愛さなくてもいいとはおっしゃらないのです。
もう一つ、先ほど引用したコリントの信徒への手紙一の12章にも大切なことが記されています。パウロはその手紙の中でこう言っています。
「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」
裏切りは正に人間の弱さです。裏切る行為そのものを良いことだと是認することは談じてあってはなりません。しかし、裏切ってしまうその人間の弱さに対して、深い同情と憐みの心をいだくこと、また、その弱い人間のためにもキリストが十字架にかかってくださったことを思い起こすことが大切なのです。人間は裏切るからダメだと切り捨ててしまうのではなく、そのような弱い人間をも救おうとしてくださる神の愛の志を、わたしたちも大切にする必要があるのです。
ですから、神様だけを見上げて歩むということは、しかし、その神様が愛して救おうとしている人間をも視野に入れないわけには行かないのです。
最後に、「わたしは、いろいろあって、人間不信気味なのです。今まで、人間を信用して、裏切られなかったことはありません」とご自分のことを書いていらっしゃるYuukoさんご本人のことを深く思います。どういう事情でそこまで人間不信になってしまわれたのか詳しいことはわかりませんが、一刻も早く人間不信から解放されて、自由に人を愛することができるようにとお祈りいたします。
コントローラ