タイトル: イエス様は何を? 石川県 A・Tさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は石川県にお住まいのA・Tさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、こんにちわ。教会の礼拝でよく唱えられる使徒信条の一節にイエス・キリストは『天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり』とあります。再臨の時までずっと座っていらっしゃるのでしょうか。イエス様はそこでいったい何をなさっていらっしゃるのですか。ただ、再臨の日が来るのを待っていらっしゃるだけなのでしょうか。よろしくお願いします。」
A・Tさん、興味深い質問をありがとうございました。確かに使徒信条の中でわたしたちはイエス・キリストについて「三日目に死人のうちより甦り、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白しています。なるほど、そこだけを取り上げると、なんだか天にお帰りになったイエス・キリストは、来る日も来る日も父の右に座って、最後の審判の時の出番を待っていらっしゃるような印象を受けるかもしれません。
ところで、この使徒信条で言われていることが聖書のどの箇所からとられた言葉だかA・Tさんはご存知でしょうか。もちろん三日目に死人のうちから甦られたことは聖書のあちこちに書かれていますから、特に指摘するまでもないと思います。三日目の復活のことはイエス・キリストご自身も予告なさっていましたし(マタイ16:21)、パウロも手紙の中で何度も繰り返しています。
あえて例を挙げれば、コリントの信徒への手紙一の15章でパウロは最も大切なこととして伝えたのはキリストが「聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」だと記しています(15:4)。
キリストが天に昇られたということも使徒言行録の1章にその様子が印象深く記されていますから、使徒信条の告白が聖書に書かれたそのままを述べていることは頷けると思います。
では、「父なる神の右に座したまえり」というくだりはどうでしょうか。キリストの復活や昇天のことに比べると、具体的な聖書の箇所を思い出すのは難しいかもしれません。むしろ、先に使徒信条の言葉を耳にして、それでキリストが父なる神の右に着座されたことを知ったという方が多いのではないでしょうか。
実は父なる神の右に着座するということは、イエス・キリストご自身が予告なさっていることです。たとえばマルコ福音書14章62節で「「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」とおっしゃっています。
ここで、注意を引くのは、イエス・キリストご自身が、「全能の神の右に座る」ということに続けて「天の雲に囲まれて来る」こと、つまり再臨のことに触れていらっしゃるということです。使徒信条が、父なる神の右に着座されたことから、いきなり再臨のことへと話題が飛ぶのは、すでにイエス・キリストご自身がそのようにおっしゃっていらっしゃることに由来しているということです。
ちょっとおもしろいところで、復活して昇天されたキリストが神の右にいらっしゃるのを目撃した人物が一人聖書の中にいます。それは最初の殉教者ステファノです。彼はユダヤ人たちから石を投げつけられて処刑されるときに天を見上げると、そこにキリストがいらっしゃるのが見えて、こう言いました。
「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(使徒7:56)
もっとも、そのとき見えたキリストは神の右に座っていたのではなく、立っていたとあります。
さて、そもそも神の左ではなく、右側に座るということに何か特別な意味があるのでしょうか。確かに聖書の世界では右は良いもの、祝福されたもの、左は良くない、劣ったイメージがあります。たとえば、ヤコブはヨセフの二人の子を祝福する時に左手を兄の方に、右手を弟の方に乗せて祝福しましたが、それを見ていたヨセフは不満に思ったという記事が聖書にはあります(創世記48:12-19)。またコヘレトの書10章2節には「賢者の心は右へ、愚者の心は左へ」とあって、やはり右は良いもの、左は悪いものというニュアンスです。
さらに詩編110編では、「わが主に賜った主の御言葉。 『わたしの右の座に就くがよい。 わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう』」という有名な言葉があります。この言葉はキリストご自身もご自分について引用していますし(マルコ12:36)、パウロも復活のキリストに適用してこの詩編の110編を用いています(1コリント15:25。ヘブライ1:13をも参照)。
この詩編が言っている「右の座に就く」とは、全権を委ねるというに等しい表現です。ですから、右の座に就いたものは委ねられた権威によって敵を徹底的に支配下に置いて滅ぼし尽くすのです。
ですから、続けてこう記されます。
「主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。 敵のただ中で支配せよ。」(詩編110:2)
パウロはコリントの信徒への手紙一の15章25節で「キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです」と述べて、この詩編110編の言葉に触れています。
つまり、「全能の父なる神の右に座したまえり」とは再臨の日まで、日がな一日、暢気に座っているということではなくて、敵を完全にご自分の足の下に置くまで世界を治めてくださっているということなのです。ですから、何もしないどころか、かえって積極的に活動してくださっているということなのです。
パウロはさらにローマの信徒への手紙8章31節以下ではこんなことも言っています。
「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。」
パウロは続けてこう記します。
「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」
神の右の座に座っていてくださるキリストがわたしたちのために執り成してくださるので、だれもわたしたちを訴えて罪に定めることはできないのです。
パウロはさらにこう結びます。
「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
なぜでしょう。イエス・キリストが神の右に座して、執り成してくださっているからです。
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