おはようございます。高知教会の久保薫です。
忙しい毎日の中でも、ふと鏡の中の疲れた顔をみて、「このまま年をとっていくんだろうか。私の人生って何だったんだろう」と思うことはないでしょうか。
ある人がエジプトの王ファラオに拝謁したとき、王に「あなたは何歳におなりですか」と聞かれて次のように答えました。
「私の旅路の年月は130年です。私の生涯の年月は短く、苦しみ多く、私の先祖達の生涯や旅路の年月には及びません。」
ここで、130年という年が長いか短いかはさして重要ではありません。また、ただ王に対して謙遜を示したのでもないと思います。彼は、「何歳におなりですか」と問われ、素直に自分の人生を振り返って、(何と、苦しみ多い人生であったことか)と思ったのです。
彼の名は「ヤコブ」、またの名を「イスラエル」といいます。彼の生涯は、聖書の創世記25章の半ばから50章に至るまで記されていますので、この短い時間ではとても語り尽くせないのですが、ファラオの前で彼の脳裏を走馬灯のように過ぎ去ったものを想像してみます。
母とたくらんで、年老いてほとんど目の見えなくなった父イサクをだまし、兄が継ぐはずだった長子の権利、相続権を奪い取ったこと。兄の怒りを恐れて、おじのもとへと母によって送り出されたときのこと。したたかなおじの下で20年もの間不当な扱いを受けながら働きづめに働いたこと。その間に得た妻と12人の息子たち。恐怖におびえながらも神に必死に祈って果たした兄との再会。最愛の妻を亡くし、さらにその妻が遺した愛する息子ヨセフをも失ったこと。年老いた体に鞭打つようにおそった飢饉。そして、食糧を求めに訪れたエジプトの地で、死んだと思っていた息子ヨセフが大臣としてエジプトを治めていたこと。そして今、こうしてファラオの前にいる自分。
・・・まさに波乱万丈の生涯でした。そして彼が「苦しみ多く」と言った、その苦しみは、自らの罪、神への不信仰が招いたものでもありました。だからこそ、「先祖達の生涯に及びません」といったのです。
では、彼、イスラエルの生涯は、本当に、先祖たちに及ばない、言い換えれば、つまらないものだったのでしょうか。
ファラオとの会見の後、彼はヨセフの庇護のもとに、エジプトで17年過ごした後、子供たち一人ひとりを祝福して安らかに眠りにつきます。ヨセフを祝福した言葉は、こうです。
「私の先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ、どうか、この子供たちの上に祝福をお与えください。・・・」そしてヨセフに向かってこうも言います。「間もなく、わたしは死ぬ。だが、神がお前たちと共にいてくださり、きっとお前たちを先祖の国に導き帰られてくださる。」
たしかに苦しくはあったけれども、神はその中においてもなお共にいて助けてくださった。生涯を導いてくださった。わたしが今いなくなったとしても、子供たちは神が守り導いて下さる、わたしを導いてくださったように。そう思いながら眠りにつけたイスラエルは、やはり幸せだったのではないでしょうか。
苦しみも涙も、確かにその時はつらいものです。もうたくさんだ、と思います。しかし、神様がそこに関わってくださる時、それは決して無駄なものではなく、意味のあるものになります。神の民といわれたイスラエル民族の父、イスラエルの生涯は、何よりもそのことを指し示しているように思えるのです。