おはようございます。清和学園の後登雅博です。今日は、私がどうして清和学園で聖書を教えることになったのか、そのいきさつについてお話します。
清和学園に来る前、私は兵庫県にあります神戸改革派神学校という学校で勉強をしていました。神の学校と書いて神学校です。神学校とは、教会の牧師になるための勉強をするところです。つまり、私は教会の牧師になる決意をして、神様と聖書について勉強していたのです。普通の人は3年3ヶ月で神学校を卒業するのですが、私は5年間もいました。さすがに、いつまでも神学校にいるわけにもいきません。卒業の時が近づいてきました。でも、卒業を間近にして、私には行き場がなかったのです。
教会の牧師になりたいと思っていましたが私を招いてくれる教会がありませんでした。このままでは、いわゆる一般企業で働かなければならないかな、と思い始めていました。そんなとき、ひょんなことから、清和学園で先生をしないか、という話が持ち上がりました。清和学園で聖書の先生を募集しているという話を神学校の校長先生が聴き、私を推薦してくださったのです。
しかし、この話にすぐに飛びついたわけではありません。といいますのも、私は学校の先生には向いていない、と小さい頃から思っていたからです。しかも、清和学園は、女の子だけが通う中高一貫の学校です。女子中高生といえば、10代の多感な年代です。かたや、わたしは30代半ばで、「お兄さん」と呼ぶには少し苦しい年になっていました。そして、何よりも教会という働き場ではない、ということが私に二の足を踏ませました。
今だから言えますが、次のように思いました。「校長先生はどうして私を推薦するのだろう?わたしは牧師に向いていないということだろうか?」
かなり悩みましたし、お祈り致しました。そのうち、神様の導きならそこに祝福がある、と思うようになりました。聖書にこんな御言葉があります。
「人は心に自分の道を考え計る。しかし、その歩みを導くものは主である。」(箴言16:19口語訳)
自分の計画は、教会の牧師になることであり、学校の先生になることではありませんでした。しかも、わたしは牧師を志してすでに15年が経っていました。ですから、今から方向転換するということは大きな決断でした。しかし、神の言葉は人の思いを超えているのです。「その歩みを導くものは主である。」というのです。神様が導くといわれる以上、これはもう信じて進むしかないのです。自分では全く向いていないと思って進むのですから、失敗したら神様が責任を取ってくださいます。
私達は人生の計画を立てます。しかし、何がこの先に起こるかを知らないで計画を立てているのです。そして、自分の計画の中心は、自分の願いや考えです。自分ではどれほど最善と思われる計画であっても、いくらでも計画は狂うことがあるのです。そんな時、そこに神様の導きを感じるのか。それとも、人生は思い通りにいかないものだといって嘆くのか。私も初めは嘆いてばかりでした。でも、これが神様の導きである、と信じることにより、道が開かれていくのです。なぜなら、神様はこれから起こるすべての事を見通して、あなたを導いておられるからです。もしかしたら、今は嘆くばかりかもしれません。しかし、必ず道は開かれるのです。「その歩みを導くものは主である。」からです。
あなたの上にも、神様の導き、祝福がありますようにとお祈りしております。