おはようございます。南与力町教会の山村貴司です。
私たちの生きているこの世は、目に見えるものと、目に見えないもので構成されています。私たちは第一に、目に見える物質的なものからのなぐさめをいただきます。けれどもこれは永遠になくならないなぐさめではありません。目に見えるものはやがてなくなってしまうからです。今日は、なくならないなぐさめの一つである、信心や信仰からいただくなぐさめについて考えてみたいと思います。
はじめに不思議なことですけれども、どうして人は、目に見えないものに目を向ける信心…信仰心を持っているのでしょうか?トリノ五輪で村主章枝選手は競技を終えた直後、手を組んで「神様」と言ってお祈りしていたように見えます。また日本では多くの方方がお正月に神社にお参りにゆき、手を合わせてお祈りをしています。これらのことは何を意味するのでしょう。これらは、すべての人の内に祈りの心と信仰心があることをしめしています。
どうしてすべての人の内に祈りの心と信仰心があるのでしょうか?聖書によると、始めすべての人が神によって、神のかたちに造られたからだ、と教えています。聖書は、私たちが神のかたちに造られ、神の子供として造られたから、私たちは一人も漏らさず祈りの心と信心を持っている…、そのように教えているのです。
このように、すべての人が信心を持ち、祈るのですが、一方でもう一つの課題があります。それは信心の対象についてです。聖書によると、すべての人が罪を犯し、弱さの中に身をおいているので、いったいどれが真の信仰の対象なのかがわからなくなっている、どれが信じるに価する対象なのかがわからなくなっている…、と教えられています。ある教えの方々は、「この特別な壷を一つ買うとあなたの家には幸せが訪れます」このように言います。またある方々は「この特別な黄色いお財布を買うとあなたはお金持ちになって幸せが家を訪れます」とおっしゃいます。日本にはいわしの頭も信心という言葉があるほど、いろいろな信心の対象があります。私たちは、どんなものでも信じてよいのでしょうか?なんでも盲目的に信じてよいのでしょうか?いかがでしょう?私たちはどこでいかがわしい対象と、本当の対象を見分けることができるのでしょうか?
聖書には、真の対象を見分ける、幾つかのポイントが教えられています。
聖書では、真の対象である神様は、第一に、かたちを持たない、目に見えないお方であると教えられています。目に見えるものは限りのある物質であって、これは神様であるとは教えられていません。神様は霊なるお方であり、形をもたず、目に見ることができないお方である、そのように教えられています。
第二に、神様は、生きておられるお方だと教えられています。それゆえ神様は、何か目に見えるものや人が手で作ったものの中などに、ジッと止まっておられるお方ではない、と教えられています。聖書には、「神(様)は(人が)手で作った神殿などにはお住みにならないお方である」、生きておられて、私たちに御自分のほうから働きかけ、語りかけてくださるお方なのです。
第三に、神様は、私たちといつでも、どこにいても、一緒に居られるお方だと教えておられます。聖書の詩篇139編というところに、このように記されているとおりです。「(私たちが)天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、(私たちが)陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。(私たちが)曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにもいまし、御手をもってわたし(たち)を導き、…わたし(たち)をとらえてくださるのです。」
神様はいつでもどこにでも私たちと一緒におられるお方です。そしていつでもどこでも私たちを守り支えていてくださるお方です。