おはようございます。お元気でしょうか。山田教会の牧田吉和です。今朝は、わたしたちの人生の歩みの上で最も悲しい死の別れをわたしたちキリスト者がどのように考えているのかをお話したいと思います。
今からもう40年も前のことです。わたしが牧師になってほやほやの頃、いまでも冷や汗が出るような失敗をしたことがあります。新米牧師のわたくしは、教会役員の方のお母さんの死に出会い、生まれてはじめて葬儀の責任を引き受けました。はじめてのことで極度に緊張していたのでしょう。弔電の紹介のところを、「祝電を紹介いたします」と言ってしまったのです。本当にいたたまれない気持ちになってしまいました。しかし、葬儀が終ってから、その役員の方が、「先生、祝電でいいのですよ。母は天国に凱旋したのですから」そう言って私を慰め励ましてくださいました。その言葉を今も忘れることができません。それは、キリスト者の死の意味を見事に言い表した言葉でありました。
わたしたち日本人にとって「死」と言うものは、動かしがたくどうにもならないものという前提があります。日本人の好む“もののあわれ”とか“無常感”の背後には、人間はやがて死ぬもの、それは動かしがたいものという日本人の根本的な考え方、宿命的な考え方が隠されているのではないでしょうか。それはどうすることもできないものだけに、愛するものを死によって失った場合にも、どん底の悲しみ、どんなものもその悲しみをいやすことのできないものになってしまいます。従って、葬儀も悲しみに満ちてしめやかに行われねばならず、そこには希望の光はありません。
聖書は、この点で全く異なっています。今お読みしました聖書の個所で、「眠りについた人たち」のことについて語っています。すなわち「イエス・キリストを信じて死んだ人人」のことについて語っているところです。聖書は、その人たちの死について、「希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないため」と言っています。死んだらもうおしまい、もうどうすることも出来ないかのように悲しみに沈みこんではならないと言っているのです。ちょうどわたしたち日本人のように、死とはどうにもならないことだ、と思い、絶望してはならない、と力強く言い切っているのです。
では、なぜ聖書はそのように断言できるのでしょうか。それは、あなたがたが一つのことを知っているからだと言っています。その一つのことについて聖書は次のように言いました。「ぜひ次の事を知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りに着いた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。イエス・キリストを信じる者にとって、死とはどうにもならないもの、最後のものでは決してありません。そうではなく、イエス・キリストが十字架にかかり死んでよみがえられたように、やがてイエス・キリストを信じて墓に眠るものも、その墓から連れ出され、必ずよみがえらされるのです。
ここに、キリスト者がこの地上の歩みを喜びの中で歩み、愛するものとの別れにおいてさえ悲しみに沈まない理由があります。ここにキリスト者の葬儀が、悲しみ以上に、深い慰めと希望の光をたたえ、力強い賛美歌が歌われる理由があります。そして、ここに「先生、祝電でいいのです」と語ってくださった理由があるのです。
ヨハネによる福音書11章25節26節で主イエスは次のように語っておられます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことはない」