タイトル: 人の命と死について 神奈川県 H・Kさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのH・Kさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「唐突な質問ですが、人の命とは何でしょうか。また人の死とは何でしょうか。実はわたしがこんなことを考えるのは、高度に発達した医療と高齢化社会の問題があります。
医学の進歩のお陰で、健康で長生きできるようになったというのは否定できない事実です。もちろん、食糧事情がよくなったというのもあるでしょう。しかし、高齢化社会は医学の進歩がなければ起りえないことだと思います。
これは言ってはいけないことかもしれませんが、しかし敢えて問わせていただきたいと思います。長生きはほんとうに良いことなのでしょうか。わたし自身もあと十何年かすれば高齢者と呼ばれる年齢に達します。その時健康で自立した高齢者であれば良いのですが、社会のお荷物になるようであれば、ほんとうにこれでいいのかと言う気持ちになるのではないかと思うのです。誤解されては困りますが、誰かのことを指して『社会のお荷物だ』と言っているわけではありません。わたしが将来自分のことをそう思うときのことを言っているのです。
そのとき、わたしの命は絶対の価値があるとは思えないような気がするのです。それでも、税金を使い、あるいは最高の医療技術を使ってでも、生きていかなければならないのでしょうか。命とは何なのだろうと思ってしまいます。
また逆に死とは何だろうとも思ってしまいます。キリスト教では死は罪に対する罰として神から与えられたものであると考えているようですが、死が神から与えられた当然の報いであるとすれば、生命を無理して延ばすことは神の御心に反することではないかとも考えられないでしょうか。医学のことを悪く言うつもりは毛頭ありませんが、一分一秒でも長生きできるようにと進歩してきた医学は、ほんとうにそれでよかったのでしょうか、そんなことを思います。
とりとめもないことを書いてしまい、先生には答えようがないかもしれませんが、何かものごとを前に進めて考えることができるようなヒントでもいただけたらと思います。よろしくお願いします。」
H・Kさん、お便りありがとうございました。いただいたご質問はほんとうにたくさんの問題を孕んでいると思いました。また、正面きって答えることは憚られるようなデリケートな問題もあるように思います。質問者や解答者の意図したこととは違う側面を取り上げられて、言わば揚げ足とりの議論になってしまう危険がありそうだからです。そんなことを心に留めながら、できる限りのことを答えていきたいと思います。
まず、最初のご質問ですが、「人の命とは何か。また人の死とは何か」という問題は、あまりにも漠然としていて答えようがありません。この質問はとりあえずパスさせていただきます。それよりも、なぜこのような疑問を抱くようになったのか、そのことに即して問題をご一緒に考えて行くことにします。
H・Kさんが人間の生と死について考えをめぐらせるようになったのは、長生きは果たして本当によいことか、という疑問からです。そしてその背景には自立した生き方にこそ価値があると言う、命の質の問題についての洞察があるように思われます。H・Kさんは、自分の問題として考えた時に、自立できなくなった時点で、生きるに値するだけの価値が自分の命にあるのだろうかと、命についての疑問の発端を語って下さっています。
しかし、そういう疑問は一見分かるような気がするのですが、二つのことがどうしてもわたしの心に引っかかります。一つは「自立」というのはいったい何なのかという問題と、もう一つは「自立」と言うことが生きる価値を決めることななのだろうかという疑問です。
そもそも「自立」とは何かということが曖昧なような気がします。というのも、「自立」といっても様々な度合いがあって、何をもって「自立できない」というのか、その線引き自体が曖昧だからです。極論を言ってしまえば、完全に自給自足の生活を送っているのでもなければ、自立しているとは誰にもいえないはずです。もっと極論を言えば、その自給自足を可能にする土地を守るだけの武力を持っていなければ完全に自立しているとはいえません。
しかし、そうでもないかぎり人は何らかの意味で他者に依存して生きています。様々なサービスを受けながら生きていくのが人間です。そう言った意味では自立した人間などもとから一人もいないのです。しかし、そう言った意味での依存は、普通は自立を妨げているとは考えられてはいません。なぜなら、他人に依存した分の対価を支払っているからです。つまり、自分が与えたサービスと受けたサービスとが経済的につりあっているかぎり自立した人間だと考えられているからです。あるいは不釣合いを金銭的に埋め合わせることができれば、自立した人間だと考えられているからです。
では、サービスに対する対価を支払うことができなくなった時点でその人は自立した人間ではなくなってしまうのでしょうか。もしそうだとすれば、自立した命とは、つまるところ経済力の問題と言うことになってしまいます。
もちろん自立とは何かということは、経済力の自立ばかりが問題なのではありません。身体的な能力の自立、知的な能力の自立ということもあるでしょう。つまり、自分の身の回りのことは自分でできると言う能力です。おそらくH・Kさんが問題にされているのは、身体的な能力の自立と知的な能力の自立のことだろうと思います。そして、それらの能力は年とともに大なり小なり衰えていくものです。その場合、誰かの助けによってその欠けた部分を補うこともできるでしょうし、欠けの度合いが大きくなればなるほど必要な助けも大きくなることは否めません。そして、その欠けを補うためのサービスに対して対価を支払うことができれば、なお、その人は自立していると言えるのかもしれません。
しかし、またそのサービスを受けないという選択肢もあるのかもしれません。ただ、誰の助けも受けないという選択肢を選ぶとしたら、そうすることの正当な理由は何なのでしょうか。自立していない命は生きるに値しないとういうことがそのことを正当化する理由だとしたらわたしには納得できません。しかし、逆に必ずだれかの援助を受けて生き延びなければならないとすれば、それを正しいとする確かな理由もわたしにははっきりと答えることができないのが現状です。
確かに、命には尊厳があることは聖書の教えです。しかし、現実には知的身体的能力の衰えと、経済的な能力の衰えを受け容れて、どこかで死に向かう自分を受け容れるのが人間の生き方なのではないかと思うのです。もちろん、それはいたずらに死期を早めたり、自殺することを認めるということではありません。ただ、あえて言えば、肉体の死は神が与えたものなのですから、それに抗わないという姿勢です。
では、医学は神の定めに逆らうことなのでしょうか。医学のすべてがそうだとはいえないことは明らかです。あえて言えば、進歩の途上にある医学をわたしたちの命にどうあてはめるべきなのか、その哲学なり思想がわたしたちの側で整っていないと言うことなのだと思います。
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