BOX190 2009年4月1日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: エッチなことは想像してもダメですか? 山梨県 ハンドルネーム・小鳥さん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供BOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は山梨県にお住まいのハンドルネーム・小鳥さんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「はじめまして。私は山梨に住む中学3年生です。お聞きしたい事があります。
 遠回りに言うのは嫌なので、単刀直入に申し上げます。
 聖書には結婚するまで、性的関係を持つことはいけないと言っておりますが、想像してしまうのもいけない事でしょうか。想像してしまい、ムズムズすることもあります。相手の顔が見えないメールだからこそ、相談することにしました。返事を待ってます。よろしくお願いします。」

 小鳥さん、メールありがとうございました。なかなか人には聞けない質問ですよね。勇気を出して聞いてくださって嬉しいです。きっと同じ悩みを抱えている人はあなた以外にもきっとたくさんいるはずです。

 さて、男も女も成長するに従って、身体も心も変化して大人になっていきます。体の変化のことは中学校でも習って小鳥さんも知っていると思います。
 それは人間として当然起ってくることですから、避けて通ることはできません。それを自然の摂理と言う人もいるかもしれませんが、キリスト教の立場から言えば、そのように神様が人間や他の動物をお造りになったのです。
 大人になるというのは、いろいろな点からそうなのですが、特に生殖能力を持つという点で、大人は子供とは違っています。体がそのように変化すれば、心や気持ちや関心も変わってくるのも当然です。ですから、性欲そのものを悪のように考えるのは、決してキリスト教的な考え方ではありません。第一、人間から性欲がなくなってしまったら、たちどころに人類は滅んでしまいます。
 しかも、困ったことに結婚してからだけ性欲が生じるようには造られていないのです。ですから、小鳥さんのような悩みが出てくるのは健全な成長の過程だと言っても間違いではありません。

 しかし、それにしても、本能の赴くままに行動するというのは、他の動物ならば許されても、人間には許されないことです。もちろん、そんなことは小鳥さん自身もよく知っていることだと思います。
 しかし、実際の行動ではなくて、思ったり想像したりすることはどうなのでしょうか。

 たとえば、「殺してはいけない」と聖書は教えていますが、「死んでしまえ!」と心の中で思うことはどうでしょう。もちろん、実際に殺人を行うわけではないのですから、行うことと思うこととはまったく同じではないことは分かると思います。
 しかし、イエス様は、実際に殺さなくても腹を立てることさえも「殺してはいけない」と教える聖書の教えに反することだと教えられました(マタイ5:21-22)。イエス様の教えでは、人間の行動は心から出てくるのですから、悪い行動は悪い心の表れなのです。ですから、行動に表れたことだけを問題にするのではなく、その背後にある心を問題とされているのです。
 では、お腹が空いていたので、食べ物を盗んで食べたらどうでしょう。もちろん、盗みは明らかに十戒の教えに違反しています。しかし、この場合、お腹が空いたので何か食べたいと思うこと自体は罪でしょうか。そう思うこと自体は悪いことどころか、体を維持していくためには当然のことです。食欲そのものがなくなってしまえばそれこそ大変です。
 問題は食欲そのものにあるのではなく、その食欲を満たす方法に問題があるのです。
 では、美味しい料理を食べているのを想像するのは罪でしょうか。それを罪だと考える人はだれもいないでしょう。ただし、おいしい料理を食べているところを想像しただけでは食欲は満たされませんから、それは正しい食欲の満たし方ではないことは確かです。

 では、小鳥さんのご質問のように、性的関係を持つことを想像することは悪いことなのでしょうか。
 先ほどの食欲の話から考えると、食欲自体が悪ではないので、食事をしていることを想像しても悪ではないように、性欲自体が悪ではないので、性欲を満たしていることを想像するのは悪ではないと考えることができるようにも思われるかもしれません。ただ、食欲と性欲の違いは、食欲を満たすには相手を必要としませんが、性欲を満たすには想像の上であれ相手がいることが前提となっていることです。

 もちろん、こうした考えには聖書の二つの言葉から反論もあるでしょう。
 一つは、聖書は「肉の欲望」を戒めているからです。
例えば、ガラテヤの信徒への手紙5章16節にはこう書いてあります。
 「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」
 もっとも、ここで言っている肉の欲望は必ずしも性欲そのもののことを言っているわけではないでしょう。
 もう一つの聖書の箇所は、みだらな者を聖書は戒めているということです。例えばコリントの信徒への手紙一の6章9節には、みだらな者は神の国を受け継ぐことはできないと記されています。ただし、新約聖書が問題にしているのは、みだらなことを思う者というよりも、みだらなことを行う者の方が圧倒的に多いということです。

 「食欲」も「性欲」もそれ自体は神様が与えてくださった自然の欲求なのですから、これを否定してしまうことはできません。いえ、「悪人は滅びろ!」と考えることでさえ、場合によっては正義に対する欲求ですから、そう思うことのすべてが罪とは言えません。
 大切なことは何か、と考えてみると結局は二つのことしかないように思います。
 一つは「食欲」も「性欲」も「正義に対する欲求」も、すべて神から与えられたものとして大切に受け止めているかどうかという問題です。禁欲的になって、これらのすべてを否定することだけが正しい生き方ではありません。
 二番目のことは、「食欲」も「性欲」も「正義に対する欲求」も、正しくコントロールできているかという問題です。一つ一つの思いや行いが、人を愛する心から出てきているか、自分勝手な気持から行動していないか、そのことが神様への愛を妨げていないか、そういうコントロールがしっかりできているかどうか、そのことが大切だと思います。

 最後にもう一つだけ加えさせていただくなら、イエス様は罪深い私たちのために十字架にかかってくださり、罪をゆるしていてくださっているということです。私たちの罪を数え上げればキリがないはずですし、その罪はどれも私たちの力では解決できるものではありません。大切なのは、イエス様に助けていただき、転んでもつまずいてもイエス様と一緒に歩むことではないでしょうか。それがキリスト教の福音です。

コントローラ

Copyright (C) 2009 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.