タイトル: 死刑制度の存廃は? ハンドルネーム・tadaさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供BOX190の時間です。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームtadaさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「日本には死刑制度があり、近年、歴代法務大臣の元、憲法の名において、死刑が淡々と執行されています。
一方、国連人権委員会は、日本政府に対して、「死刑制度の廃止」を求めていますが、日本はそれに応じていません。世界の趨勢は、「死刑制度廃止」の方向であり、欧州諸国では、すでに多くの国が死刑制度を廃止しています。
日本では、教会は、この問題に対して、どのように対応していますか。また、死刑制度を肯定している国民、刑の執行者にはどのような罪がありますか。」
tadaさん、いつもたくさんのご質問をありがとうございます。死刑制度に関しては以前もこの番組で取り上げたことがあるかと思います。その時の質問者のご質問は、「聖書は死刑制度についてどう語っているか」というものでした。今回は聖書ではなく、教会はそれについてどう対応しているかというご質問です。どちらものご質問も結局は同じことを尋ねているようですが、実はまったく異なる事柄です。
一般的に言って、聖書がどう語っているのかということは、あくまでも学問的な聖書解釈の問題です。もちろん、人間がする解釈ですから、その解釈が研究者によって分かれるということもないわけではありません。ただ、たとえそうであったとしても、聖書が語っている意味が最初からいくつもあるというわけではありません。
しかし、教会がある問題についてどういう立場であるのか、という問題は、聖書解釈だけの問題ではありません。もちろん、ここで言う教会とは制度としての教会のことです。たとえば、カトリック教会がその問題についてどう考えているかということです。もっとも、カトリック教会に対してプロテスタント教会ではその問題についてどう考えているのか、というような対比は簡単ではありません。というのも「死刑制度」の問題に関して、全プロテスタント教会の一致した見解というものを私は知らないからです。あえて問うとすれば、日本キリスト改革派教会とか、日本基督教団という教派が、ある問題についてどういう立場であるのか、ということならば可能かもしれません。しかし、それにしても「死刑制度」に関するある教派の公的な声明というものを、私は具体的に聞いたことがありません。もちろん私が知らないだけかもしれません。少なくとも日本キリスト改革派教会は教派の公的な立場として「死刑制度に関する声明」を発表したことはありません。
ただし、たとえば日本キリスト改革派教会など、ウェストミンスター信仰基準に立っている教会では、国家がもっている「剣の権能」そのものを否定はしません。ウェストミンスター信仰告白23章1節はこう述べています。
「全世界の至上の主また王である神は、ご自身の栄光と公共の益のため、神の支配のもと、民の上にあるように、国家的為政者を任命された。そしてこの目的のために、剣の権能をもって彼らを武装させて、善を行なう者を擁護奨励し、また悪を行なう者に罰を与えさせておられる。」
国家的な為政者には「剣の権能」、つまり殺傷与奪の権能があると言うのは、ローマの信徒への手紙13章4節をそのように解釈しているのです。
では、十戒の第六戒の「殺してはならない」ということと、死刑制度をどう考えているのでしょうか。ウェストミンスター大教理問答の136では、殺人罪の例外規定として「社会的正義」をその一つに数えています。つまり、死刑制度を社会的正義の実現の一つとして考え、死刑自体は殺人の罪に当らないと理解しているのだと思われます。そして、その根拠として民数記35章31節、33節に記されている死刑に関わる規定を挙げています。
ただし、以上見てきた事柄は、国家または国家的為政者には合法的に「剣の権能」が与えられているというウェストミンスター神学者会議の見解であり、その結論を受け入れた長老派・改革派教会の見解です。もちろん、教会がそうした結論を受け入れたのは、聖書的にみて十分に根拠があると考えたからです。おそらく長老派・改革派教会に限らずキリスト教世界では一般的にそう信じられていたのではないかと思われます。
しかしながら、ウェストミンスター信仰基準は、どのような場合に死刑に定めるべきなのか、また、どのような場合にどのように死刑を執行すべきなのか、ということまでは立ち入って決めているわけではありません。少なくとも国家には剣の権能があるとうことと、それが行使されるのは社会的正義のためだという正当な理由がなければならないということだけが定められているだけです。旧約聖書に記されている死刑に該当する罪、たとえば安息日違反、姦通罪、魔術などの罪が新約聖書時代の教会にもそのまま死刑に当るとは考えてはいません。また、旧約聖書の中に記されている石打の刑が、唯一の死刑執行の方法だと信じているわけでもありません。あるいは、旧約聖書の中にあるように、「目には目、歯には歯、命には命」という原理が、そのまま是認されてさえもいません。
ところで聖書にせよ、聖書を解釈して教会が定めた信仰告白にせよ、「死刑制度」というものをもっと単純化して捉えていたのではないかと考えられます。
たとえば、故意の殺人の場合、その犯人が確実に殺人犯であるならば、ということが暗黙の了解事項として認識されているわけです。けっして誤審や冤罪が起る可能性も含めて、死刑制度の是非を論じているわけではありません。
あるいは、死刑に凶悪な犯罪を抑止する効果があるのか、ということがキリスト教信仰のテーマとなったこともありません。むしろ、それはキリスト教会が扱うべき問題ではなく、国家の刑事政策の問題です。ですから、教会が公的な立場で死刑制度の存廃について発言しないのは健全であると言えるかもしれません。
死刑の問題に限らず、教会が国家の政策にどう関わるのか、という問題は、それ自体大きな問題であることは間違いありません。個々の問題についてのキリスト教会の見解を問う前に、果たして、国家とキリスト教会とはどういう関係なのか、そのことについての理解を深めておく必要があるように思います。そして、個々のクリスチャンが一国民として国家の政策にどう関わるのかという問題は、教会と国家との関係の問題とまた異なる問題であるように思います。
話が横道にそれてしまいましたが、死刑制度の存廃についてのキリスト教会の立場を尋ねられた場合に、私がお答えできることは以上のとおりです。繰り返しになりますが、キリスト教会という全教会的な括りでいえるような統一的な見解はないと言うこと。ウェストミンスター信仰基準に立つ教派の見解ということで言えば、死刑制度は国家に与えられた「剣の権能」の一つであること。そして、それは社会正義のためであるということです。しかし、死刑を存続させるべきか、廃止すべきかという問題の背後にある個々の問題点には何もふれていないということです。
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