BOX190 2009年10月21日(水)放送    BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 人生は空しく辛い ハンドルネーム・空(くう)さん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・空(くう)さんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、人生は空しく辛いことばかりだと思いませんか。わたしはそう思うことがしばしばです。そうかと言って、今わたしが食べるにも困っていると言うわけでもなければ、仕事を失って辛い思いをしていると言うわけでもありません。
 ただ、わたしの周りには失業した人たちが現実にいます。いつまでたっても仕事に就くことができない話を聞いていると心が苦しくなってきます。心が苦しくなってくるのはわたしが心やさしい人間だからではありません。その人たちのために何もできない自分に対して、心が苦しくなるのです。知らなければもっと気楽に人生を楽しむことができたのに、知ってしまったために心が苦しくなるのです。
 自分は最低の人間かもしれませんが、どうせ自分には何もできないことなのですから、世の中の不幸や苦しみは目にも耳にもとまらないようにして欲しいと思います。
 それともキリスト教を信じれば何かが変わるのでしょうか。わたしがキリスト教を信じたからと言って、失業者が減るとは思えません。もし、減るのなら、他の人が信じても減っているはずです。あるいは、キリスト教を信じると、この世の中にある不幸や苦しみに対して、超然としていることができるようになるのでしょうか。
 いったい、どうして世の中には苦しみと悲しみがあるのでしょうか。しかも、不公平としか思えない仕方で、ある人にはそれがいくつも重なって襲い掛かり、ある人にはほんのわずかしか降りかかるのは何故でしょうか。
 わたしは大きな不幸や苦しみが降りかからない組に生きていますが、しかし、それはわたしが努力してそれを勝ち取ったと言うわけではありません。有り難いと言えばありがたいことです。しかし、そのことにどんな意味があるのでしょうか。
 あの世でどんでん返しが起って、永遠の苦しみが待ち構えているのだとしたら、この世で苦しみを与えられなかった人生はまさにこの世限りの空しい人生だと言うことになります。しかし、今の人生を捨ててわざわざ苦しみの中に生きたからと言って、そこに何か意味があるのでしょうか。
 このわたしはいったいどう生きるべきなのでしょうか。教えてください。」

 空さん、お便りありがとうございました。空さんのご質問に、いったいどこからどう答えてよいのか、正直のところ答えに窮しています。
 お便りを読ませていただいて、まったくその通りと頷ける点もありましたが、それは違うのでは、と思える点もありました。何よりも「どう生きるべきか」は本人だけが下すことができる決断です。いろいろな意見に耳を傾けることは大切ですが、しかし、自分の頭で考えることをやめて、誰かの判断や意見を無批判に鵜呑みにするのであれば、それは決して正しい生き方ではないとわたしは思います。それでは自分の責任ある生き方を放棄してしまっているだけに過ぎません。

 これからわたしが述べることも、ご自分の判断のひとつの材料として聞いていただければと思います。その上で、どう生きるべきか、ご自身で考え、決断していただきたいと思うのです。

 さて、空さんのお便りを読んでいて、まったくその通りだと感じたのは、「不公平としか思えない仕方で、悲しみや苦しみがある人にはいくつも重なって襲い掛かり、ある人にはほんのわずかしか降りかからない」と言う部分です。空さんのように、今まで一度も失業した経験がないという人もいれば、何度もリストラにあって職を失う人もいます。ほとんど大きな病気もしないで一生を過ごす人がいるかと思えば、何度も入退院を繰り返す人もいます。「泣きっ面に蜂」という諺のように、仕事を失った上に病気のために入院するという二重の苦しみを味わう人もいます。なるほど現象だけを見れば、不公平としか思えません。
 どうしてあの人はこうで、その人はそうではないのか、その答えはわたしにもわかりません。このことはどんなに考えてもわからないことだらけです。ただ、はっきりいえることは、それらのことが必ずしもすべて本人の責任ではないということです。もちろん、知らず知らずの努力が悲惨な状態を回避させていたと言うこともあるかもしれません。逆に、知らず知らずの怠惰が、悲惨な結果を生み出している場合もあるかもしれません。ただ、そういう説明で、すべてが説明し尽くされるかと言えば、そうではないのです。
 もっとも、本人の努力や落ち度とは関係のない結果を刈り取るということは、余計に運命的な理不尽さを感じるかもしれません。
 しかし、その事実を知っているのと知っていないのとでは、降りかかってくるような人生とどう関わって生きていくのか、その姿勢に大きな違いを生むことになるはずです。なによりも、一方を勝ち組みと呼び、他方を負け組みと呼ぶことがどれほどナンセンスなことであるか、気がつくはずです。予測がつかない理不尽としか思えないことだからこそ、勝ち組みも負け組みもなく、他人事ではない自分自身のこととして共感する意識が芽生えるのではないでしょうか。

 イエス・キリストは、大切な生き方とは神を愛し人を愛することだとおっしゃいました。人を愛することに関して言えば、その愛とは共感する力がどれほどあるかということに関わっているのだと思います。苦しみや悲しみ、また喜びや幸せについて共感する力がなければ、誰のことも愛せなくなってしまうからです

 世の中には原因と結果との因果関係をはっきりとさせることができるものと、そうでないものとがあります。原因を特定できるものは、悪い結果が起らないように原因となるものを回避することで、人を幸せにできるでしょう。そうしたことを究明する学問はどんどん発展すべきことは言うまでもありません。医学が病気を克服し、経済学が貧困を克服するということは否定できないことです。

 しかし、どうしてそうなのか、因果関係がわからないために、理不尽にも結果を回避できないものもあります。やがては学問的研究によって、それらは克服されるのかもしれません。しかし、分からない今は、人間にとっては、往々にして、「運命」とか「仕方のないこと」で片付けられてしまいがちです。場合によっては、不幸のすべては本人の責任だと、強引にも結びつけて、その人を突き放し、その人との係わりをもとうとしないことも起りえます。

 しかし、原因がわからない理不尽なことだと意識できるからこそ、それは決して他人事ではないという思いが芽生えてくるのです。そして、そういう思いがあるところに、理不尽な痛みに共感し、その痛みに寄り添う生き方が生まれてくるのだと思うのです。キリスト教の隣人愛は、そうした共感する思いの中で実現するものです。

 人生は空しく辛いことが多いというのは、否定できないことです。また、自分ひとりが他人の苦しみや悲しみに対してできる事柄は限られていることも事実です。では、どう生きるべきかと問われれば、たとえそれが意味のないことのように思われたとしても、痛みや苦しみに共感し、寄り添うこと、そうするようにと人間は召されているのではないかと思うのです。

 来るべき世界、完成した神の国では、痛みも苦しみも悲しみも完全に克服されるのですから、そのときにはまた違った形で、人間は隣人愛を実践するようになるかもしれません。それでも、共感し、寄り添う生き方は変わりなく続けることになるでしょう。それこそが、人間に求められた隣人愛の具体的形だと思うのです。

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