タイトル: 十字架のメシアとは? 東京都 H・Mさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は東京都にお住まいのH・Mさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「いつも番組をネットで聴かせていただいています。
さて、さっそくですが、キリスト教について教えていただければと思います。
キリスト教にとって中心的な教えである十字架についてですが、『十字架に架けられたメシア』とか『苦難のメシア』という考えは当時の人々にとって非常にユニークなメシア像だったのでしょうか。それとも、なじみのあるメシア像だったのでしょうか。
以前、人から聞いた話では、キリスト教とクムラン教団には共通した特徴があり、『殺されるメシア』という考えはすでにクムラン教団の文書に見られるということでした。
確かに『殺されるメシア』という思想がキリスト教以前に全く存在しなければ、あまりにもユニークなキリスト教の教えが、その後非常に短期間のうちに広まっていったことは説明がつきにくいようにも思いました。
しかし、当時のメシア像はむしろユダヤ民族の政治的解放を実現する民族的政治的メシアであったということもよく耳にします。そちらの方が正しいとすると、キリスト教のメシア像はやはり当時としては珍しいものだったのでしょうか。そのあたりのことを教えていただければと思いました。よろしくお願いします。」
H・Mさん、お便りありがとうございました。メシアに関する問題は、なかなか興味深い問題で、わたし自身ももっとたくさんのことを知りたいと思っている分野の一つです。
もちろん、わたし自身はキリスト時代のユダヤ人の間に、メシアに関してどのような宗教的な思想の系譜があったのか、専門的に研究をしているわけではありません。研究者によって一般向けに書かれた本の知識を受け売りするのが精いっぱいで、実際のところ受け売りするだけの十分な知識も持ち合わせていないというのが正直なところです。
そんな覚束ない人間が、どれほどのことをお答えできるのかまったく自信がないことをあらかじめ白状しておきます。
まず初めに、わたし自身が多少なりとも読んだいくつかの書物と、自分自身が聖書を読んで得た知識から導き出した結論を先に言うと、「『十字架のメシア』こそが神がお遣わしになったまことの救い主である」とする教えは、当時のどのユダヤ教の教えにもない、キリスト教独自の教えであるということです。
さて、そこでご質問の中に出てきたクムラン教団との関係のことから話を進めていきたいと思います。
クムラン教団というのは、1947年に死海のほとりで発見された一連の古文書を残したユダヤ教の教団ですが、早くからこのクムラン教団とキリスト教との関係は興味の的となりました。相次いで興味をそそる学問的な研究の発表がなされましたが、中には学問的な検証に耐えることができない、憶測に基づく発表もありました。また、そういうものに限ってマスコミによってセンセーショナルな取り上げ方がなされ、一般的な人々にはあたかもクムラン教団がキリスト教の母体であるかのような印象をもたれる結果となりました。
また、発見された文書が長年にわたって一部しか公開されなかったということも手伝って、この文書にはキリスト教にとって不都合なことが記されているという憶測さえ、まことしやかにささやかれるようになったのでした。しかし、なかなかすべての文書が出版されないのは、単に膨大な文書の量と、その復元作業に時間がかかっているというのが実情で、意図的に不都合を隠しているというわけではないようです。
では、死海文書の中にキリスト教の教える迫害され殺されるメシア像の原型を見ることができるのでしょうか。フランスの学者アンドレ・デュポン-ソメールとイギリスの学者ジョン・M・アレグロの唱えた説はそれぞれ、キリスト教とクムラン教団の関係を死海文書の中に読み取りました。ここでそれぞれの主張に関して詳しくは取り上げられませんが、実際には読みとったというよりは、憶測に基づいて読み込んだと言った方がよいものでした。
特にアレグロは当時国際研究チームの一員でしたが、ラジオ番組で自説を公表し、キリスト教の主要な教えがクムラン教団に由来するものであると主張したために、他の研究チームメンバーから反論が出され、結局自説の根拠が不十分であることを認めざるを得なくなりました。
1990年代に入って、再びメシアに関わるクムラン教団とキリスト教との接点が取り沙汰されました。アメリカの学者ロバート・H・アイゼマンとマイケル・O・ワイズが発表した「刺し貫かれたメシア」に関する発表です。
1954年にクムランの第4洞窟から発掘された一連の文書のうちおよそ20パーセントはほどなく出版されましたが、残りのものは35年近くも公にされないままでした。「刺し貫かれたメシア」にかかわる断片、4Q285として知られる文書がこの二人の翻訳によって議論の表に登場してきました。
この断片はクムラン教団のメシアの称号である「ダビデの若枝である会衆の君」について言及したものですが、アイゼマンとワイズの翻訳によれば、問題の個所は「彼らは会衆の君を刺し貫くことによって殺害するであろう」と翻訳されるということです。
実はこの部分はヘブライ語の母音の付け方によって、まったく逆の意味にも理解できるというあいまいな個所です。つまり、誰かがメシアである会衆の君を殺すのではなく、「会衆の君が彼を刺し貫き、殺害する」とも翻訳できるのです。イギリスの学者ゲザ・ヴェルメシュはこの断片がイザヤ書11章1節から5節までの注釈と理解して、メシアである会衆の君が敵対者である悪の指導者を殺すことを語ったものであると反論しました。
アイゼマンとワイズの発表は当時の新聞をにぎわすセンセーショナルなものでしたが、断片が何を語っているかはそれほど明確なものではありません。残念ながらこの断片が語っていることがキリスト教の「十字架のメシア」の背景であるとは断定できるものではなかったのです。
したがって、今のところ死海文書からキリスト教の「十字架のメシア」を説明するような決定的な証拠は発見されておりません。クムラン教団とキリスト教は最初に予想されたほど緊密な関係ではなかったようです。
「十字架のメシア」や「苦難のメシア」といったメシア像が当時としては理解しがたいものであったということは、聖書の中の次の言葉によっても容易に想像がつくと思います。
まず、マルコによる福音書8章によれば、ペトロが告白した「あなたは、メシアです」という信仰告白に続いて、イエス・キリストは初めて弟子たちにご自分の受難についてお語りになりました。「苦難のメシア」というメシア像が当時一般的なものであったとすれば、ペトロはすぐさまその内容を理解し納得できたはずです。
しかし、マルコ福音書が記すところによれば、ペトロはイエス・キリストを「いさめ始めた」とありますから、メシアが苦難を受けるなど、とうてい受け入れられない考えだったということが分かります。
同じようにパウロはコリントの信徒への手紙一の1章23節で「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです」と語っています。ここからも「十字架のメシア」というメッセージがどれほど一般受けしないものであったかが伺えると思います。
したがって、「十字架のメシア」とか「苦難のメシア」というのは、類似するメシア像がどこにもない、キリスト教独自のものであると言うことだと思います。
コントローラ