おはようございます。山下正雄です。
新約聖書の中にガラテヤ地方に住むクリスチャンに宛てた一通の古い手紙があります。ガラテヤとは現在のトルコ中央部あたりの古い地名です。
その手紙の中で差出人のパウロは受取人であるガラテヤの教会の信徒たちにこう書きしるしています。
「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(ガラテヤ4:19)。
ここでパウロはガラテヤの教会の信徒たちを「わたしの子どもたち」と呼びかけています。それは父親としてのパウロではなく、子供を産んだ母親として「わたしの子どもたち」と教会の信徒に呼びかけるパウロです。しかも、ここではすでに子供を産んだ母親であると同時に、もう一度ガラテヤの教会の信徒を産み出そうとしている母親として、パウロは筆を取っています。
もちろん、パウロは男性ですからこの表現は比喩的な表現です。キリスト教のまことの福音から迷い出そうになったガラテヤの信徒たちを、もう一度、正しい福音へと連れ戻そうとしているパウロの気持ちを描いたものです。
胎内に子を宿す母親は、月が満ち足りるまで、胎内で子供が育つのを待ちます。その月日が満ちるまでに胎内の子は人間として形作られていきます。人間として形作られるという意味は、もちろん肉体の形が人間のようになっていくと言うばかりではありません。人間の心と魂がその胎内の子の内に形作られることです。
パウロはあたかも胎内に子を宿す母親のように、再びガラテヤの教会に集う人々を、まことの福音を信じるクリスチャンとして産み出そうとしているのです。そして、その月日が満ちる時がくるのを表現して、「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」と表現しています。
パウロはこの手紙のはじめの方で「生きているのはわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と言いました。
クリスチャンとして生まれ変わるということは、キリストが自分の内に形づくられ、キリストが自分の内に生きてくださることなのです。このわたしが生きているようで、しかし、わたしを生かしているのは内に生きているキリストの命なのです。
もっとも命というのは、「これが命です」といって見せることができるものではありません。キリストが内に形づくられるといっても、その形を目で確かめることができるものではありません。けれども、目に見えない命が人を活き活きと生かしているのと同じように、内に形づくられた目に見えないキリストが、信じる者たちを活き活きと生かしてくださるとは、何と素晴らしいことでしょうか。
もちろん、「あなたがたの内に」という表現は、ただ単に「一人の個人のうちに」という意味ばかりではなく、「キリストを信じる共同体の中に」という意味も含まれています。聖書ではクリスチャンの共同体である教会はキリストの体です。教会がそこにあるとき、そこにキリストの体もあるのです。
福音を信じるということは、頭であるキリストと結びついて、体である教会の交わりの中に生かされることです。「あなたがたの内にキリストが形づくられるまで」というとき、パウロは信徒の交わり全体を通してその中にキリストが形づくられることをイメージしていたのでしょう。
この日本でもわたしたちの内にキリストが形づくられることを心から願います。