聖書を開こう 2010年1月7日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 忠実で賢い者(ルカ12:41-48)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会では教会員同士はイエス・キリストにあって互いに兄弟姉妹であると呼び合います。神の子イエス・キリストと結びついて神の子供とされたという意味では、信徒同士の間で上下の関係はありません。
 しかし、それぞれに与えられた賜物の違いから、教会には特別な職務に任じられた人たちがいます。たとえば新約聖書エフェソの信徒への手紙4章11節以下には新約聖書時代の教会に与えられた教会の職務が列挙されています。そこに名前が挙がっている職務のすべてが今なお教会に存続しているわけではありませんが、教会にとって必要な職務は今もなお続いています。具体的には教師(牧師)、長老、執事といった職務です。特に牧師や長老は委ねられた群れを監督し治める務めがありますが、その務めは群れに仕える務めであるとも言われています(ルカ22:26)。
 きょう取り上げようとしている箇所は、教会の職務に立てらている人たちに関係している教えです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 12章41節〜48節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれだろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

 きょうの箇所は先週に引き続いて、イエス・キリストの再臨に備える心の準備の教えです。先週取り上げた箇所で、イエス・キリストは弟子たちに世の終わりに起る再臨の日に備えて、目を覚ましているようにとお教えになりました。
 きょうの箇所はそのイエス・キリストの言葉を受けて、弟子のペトロが発した問いから始まります。

 「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」

 このペトロの質問が問い掛けている「わたしたち」というのが誰を指し、「みんな」というのが誰を指しているのか、この問いの言葉だけからははっきりとしません。
 少なくとも12章22節から話の聞き手は群衆から弟子たちに限定されています。ペトロが言う「わたしたち」というのは聞き手である「弟子たち」のことを指し、「みんな」というのは群衆を指しているのでしょうか。あるいは「わたしたち」というのは十二人の特別な弟子たちや、七十二人の特別な弟子たちを指していて、「みんな」というのはそれ以外の弟子たちを指しているのでしょうか。

 それに対してイエス・キリストもまた、どちらともはっきりとした答えを出しているわけではありません。ただ、新しく語られたたとえ話は、その前に語られた主人の帰りを待つ僕のたとえ話とは違って、登場する人物は「主人が召し使いたちの上に立てた管理人」が中心です。つまり、先週学んだたとえ話の聴衆よりもさらに絞り込んだグループの人たちを対象としているということです。それは教会で特別な職務を担った人たちに対するたとえ話と考えてもよいでしょう。

 さて、たとえの結論にあるように「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」のですから、このたとえ話が教会での責任ある立場の人たちに向けられていることは間違いありません。その場合、主人が他の僕たちの上に立てた管理人に要求されていることは「忠実である」ということと「賢い」という二つの事柄です。管理者でない者たちは不忠実であったり、愚かであったりしても良いということではありません。管理者にはその責任に応じた忠実さと賢さとが要求されているということす。

 この場合、「忠実である」ということは、「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる」ことを指して、「忠実である」と言っています。何でもないことのようですが、それが大切なのです。
 主人は管理者に対して、特別のことを期待しているのではありません。委ねたことを委ねられた通りにしてもらうことを望んでいるのです。もちろん、管理者には自分の賜物を活かして采配を振るうことが期待されていないということではないでしょう。しかし、どんなことであれ、主人から委ねられてたことを踏み外してしまっては、もはや忠実であるとはいえないのです。

 たとえの中で忠実な管理人に委ねられたことは「時間どおりに食べ物を分配させること」でした。それは他の僕たちが生きるに必要なことを管理することです。そのために仕えるのが上に立てられた管理者の仕事です。
 しかし、その主人の意に反して、「下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば」、不忠実な管理者と呼ばれても反論しようがありません。自分より下にある僕たちに横暴を働くために彼らは立てられたのではないからです。

 教会で特別な職務に立てられた人は、委ねられた群れに対するふさわしい配慮が欠けたのでは忠実であるとはいえません。委ねられた群れに仕える気持ちがなければ、それは主人の思いからかけ離れてしまっているのです。群れの一人一人がその時々に応じて養われて成長するように仕えることこそ、主から委ねられた彼らの務めなおです。その職務に忠実であることが管理者には求められているのです。

 また、管理者には「賢さ」も求められています。その場合の「賢さ」とは、知識の豊富さや計算高さを言っているのではありません。たとえの中では、主人の帰宅が「予想しない日」であったり「思いがけない時」であったりするような管理者は愚かな管理者です。主人の思いを知りながら何も準備せず、主人の思いどおりにしなかった管理者は愚かな管理者です。
 愚かな管理者は主人が帰ってくるということを知らなかったわけではありません。そのことをうっかり忘れていたというのでもありません。長い生活の中で、いつしか自分が主人になってしまい、ほんとうの主人を思いの片隅に追いやってしまう生き方をしていたのです。
 逆に言えば、いつも誰が自分の主人であるかを知っている生き方、そして、その主人に対していつでも説明責任を果たせる生き方が賢い管理者なのです。

 すべてのクリスチャンは、キリストの再臨の日に向かって目を覚まして備えている必要があります。さらに、教会の中で特別な職務に立てられた人には、主の来臨に備えて忠実で賢い管理者であることが求められているのです。

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