いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
イエス様は、エルサレム神殿の素晴らしさを語り合う人たちに、それは崩されるのだといわれました。驚いた人たちは、それがいつなのか、どんな前兆があるのかと尋ねております。聖書に「そこで、彼らはイエスに尋ねた。『先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか』」とあります。わたしたちは、何か悪いことがおきそうだと感じますと、あらかじめそれがいつなのか、どうやっておきるのかを知りたいと願います。いつ悪いことが起こるか分かっていれば、それなりに対処できると考えるからです。ところがイエス様は、いつとも、どのようにして、とも答えてくださいません。ただ、惑わされないように気をつけなさいと言われます。
では、一体惑わしとは何でしょうか。私たちは、気をつけろ、といわれますと、何事にも対処することが出来るように備えなければと思うかもしれません。しかし、イエス様はそのようにして頑張ることを求められたのでしょうか。むしろ、何が来ても大丈夫なように備えることが出来ると考えることが、惑わしではないでしょうか。
悪いことがおきそうだと、怯えながら、頼りになるのは自分だけだと思いつめていることそれ自体が惑わしではないでしょうか。イエス様は、そのような張り詰めた人に休むことが出来ると語っておられます。「疲れたもの、重荷を負うものは、誰でも私のもとに来なさい、休ませてあげよう」。