タイトル: 霊と水によって生まれるとは? 山形県 Y・Wさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は山形県にお住まいのY・Wさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「いつも興味ある質問の回答ありがとうございます。ヨハネ3章の中に『水と霊によつて』と出てきます。改革派ではどのように解釈しているのでしょうか。」
Y・Wさん、いつも聖書についてのご質問を寄せてくださってありがとうございます。さっそくご質問について考えてみたいと思います。
今回ご質問いただいたのはヨハネによる福音書に記されたニコデモとイエス・キリストとの会話に出てくる言葉です。まずは、聖書の個所、そのものを読んでみたいと思います。
ヨハネによる福音書の3章1節から8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
さて、きょうのご質問はこの個所に出てくる「水と霊とによって」という部分の解釈についてですが、改革派ではどのように解釈しているのでしょうか、というのがY・Wさんのご質問です。
確かにプロテスタント教会が諸教派に分かれている一番の大きな理由は、ある聖書個所の解釈をめぐって、どうしても一致できない意見の相違があるからです。もちろん、ただ様々な解釈があるというだけではなく、その違いが、ある教理を建てもし倒しもするような大きな見解の相違がある場合に、教派が分かれてしまいます。しかし、聖書解釈の違いのすべてが、教派固有の理解に基づいているというわけではありません。ある聖書個所をめぐる理解に関しては、解釈の幅を認めているというケースもあります。
今回ご質問のあった個所は、改革派教会固有の聖書解釈があるという個所ではないように思います。わたしの勉強不足かもしれませんが、この個所をめぐって、どこかの国の改革派教会の教会会議が、この個所の意味はこうあるべきだ、という解釈の一致を定めたという話は聞いたことがありません。確かにウェストミンスター信仰基準のなかにも、何度かこの個所が証拠成句として参照されますが、特に「水と霊によって」という言葉の解釈を明らかにしている個所ではありません。
もっとも、そうは言いましたが、改革派教会の「再生と洗礼」に関する教理になじんでいる人であれば、この個所をこう理解するだろう、という考えをお聞かせすることならば、できるだろうと思います。
ただ、わたし自身は改革派教会の牧師ではありますが、「改革派教会だから、ここの個所はこう理解する」という言い方はあまり好きではありません。教派の教理が先にあって、その教理から聖書を理解するというのは、本末転倒だからです。この個所をどのように理解した結果、どのような教理が導き出されたのか、というのが順序であると思います。
前置きが長くなってしまいましたが、ご指摘の個所にはどんな解釈上の問題があるのでしょうか。まずは、その点からお話ししたいと思います。
きょう取り上げた聖書の個所ですが、イエス・キリストが最初に発した言葉は「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)というものでした。そのイエスの言葉に対して、ニコデモがトンチンカンな返事をしたので、改めてイエス・キリストは「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(3:5)と言葉を変えて返事をします。これが、きょう問題となっている言葉です。
この3章5節の言葉が、3節に出てきた「新たに生まれる」という言葉を言い換えていることは、文脈から明らかです。つまり、「新たに生まれる」といういうことは「水と霊とによって生まれる」というのに等しいということです。
しかし、「霊と水」についてさらに説明が続くのかと思うと、続く6節では「肉」と「霊」との対比はなされますが、「水」についての説明は一切触れられません。
そして、7節でふたたび「新たに生まれる」という言葉が取り上げられ、8節で「新たに生まれる」ということと「霊から生まれる」ということの関係が示されます。
この一連の話の流れからすれば、新たに生まれることとは、ニコデモが考えたような、肉からの生まれ変わりではなく、聖霊が関る生まれかわりである、ということは明らかだと思います。
では、なぜイエス・キリストは、この一連の話の中で、たった一度だけ「水」について触れたのでしょうか。そして、そのあと、「水によって生れること」についての説明を一切しないで、「霊から生れる」ことについての説明だけをなぜ述べたのでしょうか。それが、この個所をめぐる議論の中心点です。
まず、今日のキリスト教会の「洗礼」を知っている者にとっては、単純に「水」とは「洗礼」を意味していると考えられがちです。確かにキリストご自身は将来の洗礼を御存知でしたから、この場合の「水」は「洗礼」を指している、と考えられなくもありません。
しかし、ヨハネによる福音書の中で「水」について言及する他の個所では、「水」が「洗礼」そのものを意味しているケースは一つもありません。むしろ、「水」は「聖霊」を指している、とする言葉が7章39節に記されています。
さらに、洗礼者ヨハネは自分が授ける「水の洗礼」と、来るべきメシアが授ける「霊」の洗礼とをはっきり対比しています。それらを合わせて考えると、キリストが「水と霊とによって生まれなければ」とおっしゃった「水」が文字通りの「水」でもなければ、「洗礼」を意味するものでもはないことが分かると思います。
では、キリストはなぜ単純に「霊によって」とだけ言わないで「水」という言葉をそこに加えられたのでしょうか、その謎は、残念ながら十分に説明しきれないというのが現状です。
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