いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
8月15日になりますと、わたしは父の死を思い起こします。
ちょうどこの日、まだ50代でしたけれども癌に侵され、死んでいきました父のことです。当時、小学生であったわたしは、父の死をしっかりと受け止めることができませんでした。もう余命がないと母から告げられましたとき、悲しみの中、目の前が暗くなるということを言葉のとおり体験しました。そして、自分の人生はなんとつまらないものだろうかと思いました。その年の残暑のころ、空が異様に明るく澄んで見えたことを覚えております。それは希望というよりはむしろあきらめの色でした。それ以来、心の深いところで、生まれてこなければよかったと自らを呪いつづけてきました。絶望を胸に秘めながら、それでも体は生きていく力に溢れる。そのことが疎ましく感じられ、若いころのわたしのあり方は屈折したものでした。
それから何年もすぎ、聖書の言葉に触れて心が動かされました。とりわけ、旧約のイザヤ書の言葉が心にしみました。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し無視していた」(イザヤ53:3)。イエス様の苦しみを描いた箇所です。しかし、わたしにはイエス様がわたしと一緒に苦しんでくださっているように感じられました。絶望の中にイエス様がいてくださる、そう思えたときから、わたしの再生の歩みが始まりました。