おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
6月のことを古い日本の月名で「みなつき」と呼びます。漢字で「水の無い月」と書きます。6月と言えばまさに梅雨の季節で、水が無いというのは不思議な気がします。実は旧暦の6月は、丁度梅雨の明けるころで、雨が降らなくなって、水がなくなるところから「水無月」と呼ばれるようになったということらしいです。
しかし、これとは全く違った説もあるようで、「みなつき」の「な」というのは、「無い」という漢字があてられていますが、本当は「の」というのが正しい意味だそうです。つまり、水がない月ではなくて、「水の月」が「みなつき」になったというのです。
どちらの説が正しいのかは分かりませんが、新暦の6月が雨の季節であるのは間違いありません。しかし、これも年によって空梅雨だったり、集中豪雨だったり、今この番組を聴いていてくださっている方が住んでいらっしゃる場所によっては、雨の話題がまったくきょうの気候とちぐはぐであったりするかもしれません。
さて、雨と言うと、たいていの人にとってはあまりよいイメージではないようです。せっかくばっちりと決めたスーツ姿も、横殴りの雨では台無しです。雨の日が続けば洗濯物も乾きません。おまけに湿気が増えて、じめじめとうっとうしい気持ちになります。せっかく食べようと思っていたパンにカビなど生えていたら、もう最悪の気分です。そんなわけで、たいていの人にとっては雨は嫌われ者です。
しかし、空梅雨の年には夏の水不足が心配されます。水田に十分な雨が降らなければお米の収穫にも影響してきます。自分の頭の上に雨が降ることを考えれば、雨はとかく嫌われ者でも、しかし、雨がもたらす恩恵を考えれば、雨はまさに恵みの雨です。
日本に住んでいる限りは、年間を通じて割りと降水量があるために、雨は降って当たり前のようになっていますが、聖書の舞台となっているパレスチナでは、年間降水量が僅かしかないという地域がほとんどです。
旧約聖書詩編の42編には、こういう言葉があります。
「涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。」
涸れた谷というのは、雨季には濁流が流れるほどですが、乾季になるとカラカラに干からびてしまう場所です。そんな場所に水を求めてやって来る鹿の姿は本当に哀れです。その鹿の姿に、魂の渇き切った自分の姿を重ねて、この詩編の作者は「神よ、わたしの魂はあなたを求める」と歌っています。
雨が極端に少ない気候であればこそ、こうした表現はそこに暮らす人にとって心に響くものがあるのでしょう。聖書には意外と水と魂の渇きに関する言葉が多く出てきます。たとえば、イザヤ書55章にはこう記されています。
「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。」
この言葉は文字通りの喉の渇きの話かと思っていると、いつしか、「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」という言葉になって、主なる神のもとに来て、魂に命を得よという話に発展します。
水は人の命にとって無くてはならないものですが、魂の渇きを満たすことはできません。雨が豊かに降り注ぎ、水が豊富に与えられていることで、魂の渇きに鈍感になっているのだとしたら、それは、とても残念なことです。雨の多くなるこの季節、魂の渇きにも心を留めてみてはいかがでしょうか。魂に潤いが与えられてこそ、活き活きとした人間でいることができるのだと思います。