おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
梅雨の季節と言えば、カタツムリを思いだします。「でんでんむし」の歌にでてくるカタツムリです。地方によってはマイマイとかツブリなどという呼び名でも知られています。実はカタツムリの呼び方は、方言ごとに異なっていて、全部で150種類以上の呼び方があるそうです。その研究をしたのは、有名な民族学者、柳田國男で『蝸牛考』という本にまとめました。「蝸牛」というのはカタツムリのことですが、その研究から「方言周圏説」というものが生まれました。つまり、京都から同心円的に言葉が広がって行ったという説です。ですから、カタツムリの古い呼び名は、地方にこそ残っていて、「ででむし」という関西圏を中心に知られている呼び名は比較的新しいと言うことになります。
ところで、聖書の舞台となっているパレスチナにはカタツムリはいるのでしょうか。詩編の58編9節には「なめくじのように溶け」(新共同訳)という言葉が出てきますが、他の翻訳聖書では同じ個所が「なめくじ」ではなく「かたつむり」と訳されています(口語訳、新改訳)。「溶ける」という意味から考えると「かたつむり」より「なめくじ」の方がぴったりしているように思えます。しかし、ヘブライ語のシャブルールという言葉は聖書の中でここにしか出てこない言葉なので、「なめくじ」なのか「かたつむり」なのか判別が難しいところです。
それにしても、パレスチナにカタツムリがほんとうにいるのかどうか気になるところです。そう思ってあちこち調べてみたところ、デザート・スネイル、つまり「砂漠のカタツムリ」と呼ばれる種類のカタツムリがイスラエルにはいるそうです。直径2センチ程の白いカタツムリで、もちろん、姿を表して活動するのは雨季になってからです。このデザート・スネイルは地表温度が70度にも達する砂漠の環境で数年間は耐えられる能力を持っているそうです。雨季以外の過酷な環境を耐え抜くとは驚きです。自然界の驚きというよりも、そのような能力を小さな生き物にお与えくださった神の創造の御業の素晴らしさを思います。
さて、カタツムリというとゆっくりとした動きで地表を這いまわります。そして雨が無い季節になると、殻の中に閉じこもって、次の活動の機会までじっと待っています。あわただしく活動する自分からすると、もどかしい気がします。おまけに次のチャンスが訪れるまで、じっと待っているなど、随分と悠長な生き物だと感じます。
しかし、そうした神のお造りになったものから学ぶべき点も多いのではないかと思います。何もかもがスピード化され、速さが求められる今の時代に、ゆっくりであることを受け入れて発見できることもたくさんあるはずです。
わたしはせっかちな人間なので、いつもエスカレーターは駆け上る方です。関東では急ぐ人のためにエスカレーターの右側を開けておくのが暗黙のルールですが、二人並んで通り道をふさがれると、イライラとしてきます。そんなとき、カタツムリのようなゆっくりした気持ちになって、前に立っている人のことを観察してみると、気がつかないことに気がつくものです。左手が自由に使えないために、わざわざ右側に立ってベルトにつかまる人もいるのです。人によっての事情というものが世の中にあることを知るためには、せっかちであってはいけないと思いました。せっかちな生き方は、他人の事情や必要を見落として、自分中心の生き方に陥りがちです。人の数だけ、一人一人が違うと頭ではわかっていても、そのことを理解して受け入れるには、時間が必要です。ゆっくりとその人と付き合ってみて、はじめてその人の生き方ややり方を理解できるものです。そういう作業がなければ、隣人愛など成り立たないものだと思います。