おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
大河ドラマ「平清盛」の評判は、放送当初から映像が汚いなどの酷評を受けているようですが、視聴率を気にする制作者にとっては大変気の毒な気がします。
平安時代と言えば、雅な世界を連想する人が多いのかもしれませんが、ちょっと想像力を働かせて考えてみれば、庶民の暮らしは泥まみれであったことはすぐに理解できるはずです。その時代の庶民にとっては、毎日洗濯ができるほど着替えがたくさんあるわけではなく、風呂に入るといっても風呂などある家があるはずもありません。しかも、道路は舗装されているわけではないので、雨が降れば道はぬかるみ、乾けば風で埃が舞ってしまうでしょうから、こぎれいな格好ができるのはよほどの上流階級だけです。
歴史的な町や建造物を見て回るとき、それらの建設にかかわった権力者や上流階級の人々の豊かな暮らしを想像するよりも、ついつい、半ば強制的に働かされた人たちの暮らしのことを思ってしまいます。もちろん、仕事があって食べることができるというのは、路頭に迷うよりはよっぽど幸せであったかもしれません。しかし、そうした人々には、現代のような労働者の権利もなければ、労働基準法もありません。家畜のようにこき使われ、つらい生活を送っていただろうと考えてしまいます。
過去の歴史の中で、庶民の暮らしというのはほとんど顧みられることがありません。歴史の書に記されるようなことは、非日常的なことであったり、次の世代に伝えたい偉大な業績や出来事であったり、そういうことばかりです。そういう歴史の描き方に慣れてしまうと、現実に生きていた人々への思いがどこかに飛んでしまいます。それは、また今現実に生きている人々への関心の欠如にもつながっていくような気がしてなりません。
ところで聖書が記していることは、特に旧約聖書が記していることですが、その大半はイスラエル民族の歴史です。見方によっては、イスラエル民族の偉大さと存立の正当性を描いているとも読めなくはありません。しかし、もっと丹念に読んでいくと、この聖書に記された歴史は権力者の偉大さや正当性を伝えているだけではないことに気が付きます。むしろ、ある場合には権力者がその行うべき道を踏み外していることが大胆に指摘されたり、民族が受けるべき裁きについて容赦のない告発がなされていたりします。要するに、何かが美化されて良い所だけが綺麗に描かれているのではないのです。そうではなく人間の現実の姿がありのままに描かれているといっても言い過ぎではありません。
聖書の歴史から学ぶとしたら、この人間のどろどろとした現実の姿こそ学ぶべき大切な点です。そこに描かれている人々の姿は、権力者であれ、一般庶民であれ、あさましい罪人の姿です。いえ、信仰をもった一人の敬虔な人間であると同時に、なお罪の支配にあえぐ人間の姿です。
自分たちを理想化し、美化して伝えたいと思うのは、誰しも願うところであると思います。しかし、わたしたちが知らなければならないのは自分たちの本当の姿です。聖書によれば、それはまさに人間の罪深く惨めな姿なのです。
こう書いてしまうと、夢も希望もないように思われるかもしれません。しかし、現実を知ることこそ、次に何をなすべきかを知る大きな手掛かりなのです。美化された現実からは、何も良いものは出てきません。それは臭いものにふたをして、本当は醜い現実を正当化しているにすぎません。聖書の描く人間の歴史から人間の現実を学ぶときにはじめて、救い主であるイエス・キリストを必要としている人間の姿が見えてくるのです。