いかがお過ごしでしょうか。江古田教会の風間義信です。
先日、街を歩いていましたら、「栄光の希望」という言葉が目に入ってきました。どうやら商品の宣伝のようでしたが、これは聖書の中にある言葉で、とても重要なものです。新約聖書のコロサイの信徒への手紙の1章26節27節に次のようにあります。「秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」
異邦人というのは、神を知らない者と言っても良いでしょう。その人たちに「秘められた計画」、つまり隠されていたことが教えられました。それがキリストです。いったいどうして、キリストが栄光の希望なのでしょうか。その生涯は30数年ほどで、最後は人々からののしられ、十字架につけられて殺されてしまいました。それは栄光とは全く逆のみじめなものです。けれども、そうではありません。そのみじめと思える姿は、本当はわたしたちの姿です。
なぜなら、その十字架で背負われたものは、神の前で償わなければならないわたしたちの罪だからです。このわたしたちにはどうすることもできないものを担い、解決してくださったのがキリストです。この方はどこか遠くから眺めておられるのではなく、わたしたちと共におられると約束してくださいました。たとえ、こちら側が忘れても、離れることなく支えてくださっています。その約束があなたにも向けられていることを、この番組によって知っていただきたいと願っています。