いかがお過ごしですか。新浦安教会の芦田高之です。
どこに行っても気持ちが落ち着かない。あるいは、どこにも行きたくない。あるいは、どこか遠くに行きたい…とか。わたしたちは、居心地のいい場所を求めたり、どこに行っても気持ちが晴れなかったりします。
昔の信仰者は、こう神様に向かって祈っています。詩編139編から少しご紹介します。
「(神よ、)どこに行けばあなたから離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、…海のかなたに行きつこうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしを捕らえてくださる。」(7-9節)
ここで詩編の信仰者は、どこに行っても、神様から離れることはできない。隠れることはできない、と告白しています。天に登っても、海のかなたに行っても、神様の目から逃げ隠れすることはできない、と言っているのです。
でも言いかえると、わたしたちが、どんな所に行っても、そこには神様が一緒に居てくださる、ということです。ただ一緒に居てくださるだけではない。「御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしを捕らえてくださる」のです。右の御手、というのは、わたしたちを大きな確実な力で守ってくださる、という表現です。
「そこに行くのは嫌だなあ」と、思えるような所に行くとしても、そこに神様は一緒に居てくださる。そして、わたしたちを力強い確かな力で守り、支えてくださるのです。それが、神という御方です。