おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
キリスト教を信じていない人にとっては、キリスト者が毎週日曜日に教会に行くことが不思議に感じられるようです。不思議にというよりは、自分なら面倒くさくてとてもついていけない、と思われるようです。
確かにキリスト教を信じるネックの一つに、日曜日の礼拝に出席し続けるということがあるようです。「よくまぁ、飽きもせずに毎週日曜日に教会に行きますねぇ」と言われることもあります。確かに長年続けてきた生活のスタイルを変えることは難しいというのは分かります。これはどんなことにも言えることで、キリスト教会の特殊な問題ではありません。慣れないことをし続けるのは、だれでも最初は難しく感じられます。しかし、慣れてしまえばなんてことのない話です。「よくまぁ、毎週教会に行きますねぇ」とは言われますが、しかし、発想を変えれば、わたしたちは毎日自分の家に帰ります。だれも、「よくまぁ、毎日自分の家に行きますねぇ」とは言いません。家に帰るのは当たり前のことだからです。それが生活の一部だからです。同じようにキリスト者にとって、毎週日曜日に教会に行くことは、それが生活の一部なので、特別なことなのではありません。 もっとも、そうはいっても途中から教会へ行くようになった人にとっては、日曜日の生活を変えることはやはり特別なことです。特に家族やまわりの人たちとの関係は、自分一人の問題ではありませんから、理解を得ることが一番大変なことかもしれません。
さて、教会の話ですが、教会といえば聖書のお話を聞いたり、賛美歌を歌ったり、というイメージが一般的かもしれません。そのために日曜日の一定の時間を割いて、わざわざ集まるのが教会だ、と多くの人は考えています。確かに神を礼拝するためにキリストの名によって人が集まれば、建物のあるなしに関係なくそこは立派な教会です。しかし、教会のイメージについて、聖書はもっと豊かに語っています。
新約聖書には、教会は人の体のようなイメージで描かれています。人には頭があり、体があります。手も足もあり、顔には目や口や鼻や耳があります。それらがそろって一人の人間となります。目が耳に向かってお前はいらないとは言いません。手が口に向かって、お前ばかりおいしいものを食べてずるい、などとは言いません。それぞれ与えられた役割を果たすことで、体全体がうまく働くようにできているのです。聖書は教会もそれと同じだと語っています。
確かにこの世のどんな組織もそれと似た面はあります。しかし、教会ほど多種多様な人が一つに集まっている集団はほとんどないように思います。会社であれば、いろんな才能の人が集まりますが、しかし、会社の利益を上げるのに役立たなければその人は必要とされません。オーケストラであれば、確かに色々な楽器を演奏できる人が集まっていますが、しかし、楽器が演奏できなければオーケストラの集団に入ることはできません。高校や大学にもいろいろな人が集まりますが、しかし、入学試験で一定のレベルに達しなければ入学が認められません。しかし、教会には年齢も性別も能力も個性も違った人が集められて、一人ひとりが神に愛された一人として重んじられ、教会というキリストの体全体を建て上げていく重要な一人として迎え入れられます。ここでは互いに他者を必要として生きる喜びを味わうことができます。
キリストのもとに集められたそういう一人ひとりと、時と場所を共有できる喜びを、ぜひラジオをお聴きになっているあなたにも味わっていただきたいと願います。