おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
今月はイエス・キリストのご生涯を、新約聖書に記された福音書から学んでいます。
福音書の記すところによれば、イエス・キリストは言葉をもって教えられた、というだけではありませんでした。貧しい人、捨てられた人、省みられない人たちと一緒に過ごす時を大切にされました。特に罪人呼ばわりされて救いの希望のない人たちと積極的にかかわりを持ちました。そのために、人々からは罪人の仲間だとさえ言われました(ルカ7:14)。
また不思議な力で病気に苦しむ人を癒したり、わずかなパンと魚から大勢の人たちに食べ物を分け与えたり、普通の人間ではできないこともなさいました。しかしそのために、悪霊の頭によってこれらの不思議な業を行っているのだという悪評をいう者たちもいました(ルカ11:15)
しかし、その反面、キリストに対して自分勝手な期待を寄せる人々も現れました。イエス・キリストを文字通りの王として仰げば、外国の支配から自分たちの民族を解放してもらえるのではないかと、そう考える人たちもいました(ヨハネ6:15)。
ある日、イエス・キリストは弟子たちに、世の人々がご自分について何者であると言っているかをお尋ねになりました。そしてそのあとで、では、お前たちはわたしのことを誰であるというのか、とお尋ねになりました。一番弟子のペトロがこの問いかけに真っ先に答えて、「あなたはメシア、生ける神の子です」とその信仰を告白しました(マタイ16:16)
このペトロの告白こそ、イエスをメシア、キリストであるとする、キリスト教の中心的な信仰を言い表した言葉です。けれども、その時ペトロ自身が「メシア」という言葉をどれほどの理解をもって使っていたのかは、ふがいないものがあります。というのは、このすぐ後でイエス・キリストがこれからご自分が直面することになる苦難についてお語りになると、これもまたペトロが真っ先に反対したからです(マタイ16:21−22)。ペトロにとって、メシアの苦難やメシアの死など考えられないことだったからです。
しかし、メシアとしてのイエスの働きは、ご自分の死を抜きにしてはあり得ないことだったのです。イエス・キリストはご自分のメシアとしての使命をこうお語りになりました。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)
メシアとしてのイエス・キリストは、罪のための贖いとして、丁度犠牲の小羊のように、ご自分の命を捧げるためにこそ、この世に来てくださいました。このイエスの身代わりの死を通して、わたしたちの罪が赦され、永遠の命にあずかることができるのです。このことを心から信じるのがキリスト教の教えです。
イエス・キリストはご自分からこの苦難のメシアの道を歩んでくださいました。ヨハネの手紙一の4章10節にはこう記されています。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
わたしたちが神を愛したので、神は救いの御手を差しのべてくださったのではありません。そうではなく、わたしたちの手ではどうすることもできない罪の泥沼だからこそ、わたしたちを救いだすために、キリストはご自身を捧げてくださったのです。