おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
今月はイエス・キリストのご生涯を紹介しながら、その教えと御業の中からお話をしています。
イエス・キリストの教えの中には、父なる神の愛についての話がたくさん出てきます。それも、正しい人や立派な人に対する愛ではなく、罪人に対する神の慈愛についてより多く語られています。
そもそも、イエス・キリストが説く父なる神のお姿は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」お方なのです(マタイ5:45)。そのようにすべての人に向けられた神の愛の中でも、罪人に対する神の愛が、とりわけ目立って語られています。というのも、イエス・キリストはご自分の使命について、こうお語りになっているからです。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)
そうです。イエス・キリストは罪人を招いて救うためにこそ来られたのですから、罪人に対する神の愛が最も多く語られるのは当然です。いえ、教えとしてお語りになるばかりでなく、実際の行動の中でも、イエス・キリストは罪人に対する深い関心を示されました。そのために心ない人々からは「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」とさえ悪口を言われるようになりました。
イエス・キリストがお語りになった父なる神の愛についての教えの中で、もっともよく知られているのは、「放蕩息子のたとえ話」として知られているお話です(ルカ15:11以下)。実はこのたとえ話は、放蕩息子の話に中心が置かれているのではなく、二人の対照的な息子を持つ父の愛にこそ、このたとえ話の中心があるのです。
そもそも、イエス・キリストがこのたとえ話をお語りになったのは、自分たちを正しいと思っている人々の非難に対して、ご自分の働きを弁明するためでした。
ルカによる福音書の15章の冒頭には、イエス・キリストの話を聞こうとして、徴税人や罪人たちが近寄ってくる様子が描かれています。「徴税人や罪人」という言い方は、その当時のユダヤ社会の独特の人間評価に基づいた言い回しですが、とにかく当時のユダヤ社会では道徳的にも宗教的にも神の国とは無縁と思われていた人々です。そういう人々に教えを説くキリストを非難したのは、自分こそ神の国にふさわしいと思っているファリサイ派や律法学者たちでした。
イエス・キリストは、徴税人や罪人の姿を、このたとえ話では、放蕩に身を持ち崩して、ぼろぼろになって帰ってくる弟の姿に例えます。しかし、この弟の帰りを誰よりも首を長くして待っていたのは父親でした。この父が放蕩に身を持ち崩したこの者を、わが子として迎え入れたのです。
しかし、この父親には自分の心を理解しないもう一人の息子がいました。弟のように家を飛び出したりはしませんが、父のもとで喜んで暮らしていたというわけではないのです。何よりもその不満は、弟を喜んで迎え入れた父親に対して爆発します。畑仕事を終えて帰ってきたこの兄は、喜びにあふれる父の家の前で足が止まってしまいます。しかし、その兄を家から出てきて迎え入れ、諭したのはほかならぬ父でした。
父なる神の目からは、兄も弟も自分の心を知らない罪人なのです。自分では自由に正しく生きているようでも、喜びがなく破綻しているのです。
しかし、この罪人をこそ救おうと、父なる神は身を乗り出して救いの手を差し伸べてくださるのです。イエス・キリストはご自分の身をもってこの父の姿をわたしたちに示してくださっています。