おはようございます。高知教会の久保浩文です。
わたしたち人間は、一人孤独では、生きることのできない存在です。いや、そうではない、自分は、人間関係の煩わしさ、気遣いに疲れている、むしろ一人で自由に勝手気ままに生きていった方が余程気楽で良いと思っておられる方もいるかもしれません。しかし、人は、神によって創造されましたが、本来人は、人と人との交わり、支え、つながりの中で生きるように造られました。まわりを見まわし、よく考えてみると、人は誰しもが誰かとつながりをもち、誰かの支えを得て生きているのではないでしょうか。家族の中でのつながり、学校や職場の中の繋がり等、人は社会の中で生きざるを得ないようになっています。
わたしも、社会に出るまでは学校の友人との関わりの中で生き、その中には今なお親しく交流をもっている友人がいます。良い友人は一生の宝物です。課外活動や様々な行事に参加して協力し合ったり、一緒に汗を流したりしている内に、教室で授業を受けているだけでは分からなかった面を、お互いに発見するようなこともあるでしょう。お互いをより深く理解し、場合によっては、家族の兄弟姉妹以上に、強くて深い絆を築くことができる場合もあります。
反対に、「嫌いではないが、ちょっと苦手」という人も、中には一人や二人、いるものです。皆が皆、まわりの人間に好感をもち、支え合う、というふうにはいきません。悪くすれば、いつも近くにいるのに犬猿の仲、ということだってあり得ます。皆で気持ち良く過ごせたらいいのに、なかなかそうはいかないのが人間のやっかいなところです。
聖書の御言葉は、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」(フィリピ2:2)するようにと勧めています。わたしたちの身近な人のことを考えてみても、同じ思い、同じ愛をもつことのできる人がどれだけいるでしょうか。「好きになる」ことと「愛する」ことは、似ているようで、実は違います。「愛する」という言葉を聞くと、何かしらいやらしい、エロチックな響きがします。 聖書には「愛しなさい」という言葉が頻繁に出てきます。聖書の教える「愛する」とは、「無償の愛」「自己犠牲の愛」と言われるものです。相手がどの様な人であれ、自分のことを嫌って憎んでいたとしても「その人のことを、人格も性格も長所も短所も含めて全てを受け入れてあげることです。そんな奇特な人が果たしているでしょうか。
イエス・キリストは、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。…あなたがたの父が憐れみ深いようにあなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ6:32-36)と教えています。イエス・キリストは、御自分が弟子たちに教えられただけでなく、御自分の生涯を通してわたしたちを愛し、受け入れてくださり、わたしたちに仕える人生を歩まれました。イエス・キリストは神の御独り子でありながら、わたしたち人間と同じようになられて、この地上の生涯を歩まれました。神としてのプライドも全て捨てて、わたしたちが神を信じるようにと、わたしたちのために仕えてくださったのです。イエスは、わたしたちを含めて全ての人を愛して受け入れようとされましたが、多くの人は、イエスの愛を受け入れる事が出来ず、排除して十字架につけてしまったのです。イエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われた通り、わたしたちのために神からの懲らしめである十字架の罰を受けてくださったのです。 誰一人としてイエス・キリストの自己犠牲の愛から漏れている人はいないのです。皆様一人ひとりがイエスにとって、御自分の命を差し出しても惜しくない大切な友、命なのです。