今年のイースターは、3月31日の日曜日です。ほほえみトークでは先週から、過去に月刊誌で連載されました「キリスト教への手引き」(榊原康夫著・東京恩寵教会名誉牧師・1月6日召天)のご紹介をしています。第2回目の今日は「生きているイエス」というお話です。
生きているイエス
街の中のキリスト教会堂にそびえる十字架は、イエスの死体のないからっぽの十字架です。イエスは死んで3日目に復活し、昇天されたからです。イエスが復活したなどというと、現代人は吹き出します。それが、イエスの死後50日もたたぬころに教会がエルサレムで説教し始めて以来ずっと、世の中の人が示し続けてきた科学的態度です。
科学にも種類があって、自然現象を何度も観察し仮設を実験で検証して法則を立てる自然科学もあれば、証拠と証言に基づいて一番もっともらしいこと(蓋然性)を推論して行く歴史科学もあります。一度しか起こらない事件の歴史的意義を扱う歴史研究は、観察実験による方法をとってはなりません。昭和6年9月21日に榊原康夫という男が兵庫県芦屋市で誕生した”歴史的”出来事は、”見たことがないから”といって否定してはならず、証拠と証言が有力なら信じなければならないことです。
紀元一世紀ユダヤにも「サドカイ人は、復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しないと言い、パリサイ人は、それらは、みな存在すると主張している」意見の違いがありました(使徒)。今と少しも違いません。そうした中でキリスト教がイエスの復活を信じた証拠と証人は、コリント人への第一の手紙15:1-11に列挙されています。
(1)「聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえった」(4)。つまり旧約聖書に予告があった出来事でした。
(2)死んだはずのイエスがたくさんの人に「現れた」ので、出会った証人がいます(5-8)。第一に3年以上もイエスと寝食を共にした「ケパ」「12人」「すべての使徒」、いいえ実の弟「ヤコブ」もその証人です。人間違いではありません。第二に「500人以上の兄弟たち」が「同時に」会ったので、幻覚とか錯覚の可能性もありません。
(3)その「大多数」は、いまなお生存している」ので調査できます。証言はまじめです。
(4)「神の教会を迫害した」「わたし」パウロまでも回心させた超自然的出会いでした。奇跡です。
これらの証言と結果を全部一挙に説明するには、イエスが確かに復活したと考えるのがもっともらしいでしょう。キリスト教会は決して、だれでも復活できたなどと迷信的に考えてきたわけではありません。世界歴史上イエスひとりだけが特別の意味をもつ出来事として復活した。と信じているのです。
その第一の意義は、人間が死んで絶滅する動物ではないことが初めて事実をもって客観的に立証されたことです。人間は、誕生の前から母胎で生きているように、死後も生きています。地上で肉眼で見える人生は、その人の生存の全部ではなく、一部です。
第二の意義は、イエスが生前「多くの人のあがないとして、自分の命を与えるため」に死ぬのだと説いていたことが(マルコ10:45)、本当であったと立証されたことです。イエスの命は、多くの人の罪の贖い代としてはお釣りがくるほど十分の代価を払い終えたことがわかります。以前に学んだように、神は人と「わざの契約」を結び、神の命令にそむくと死をもって罰すると言われました(創世記2:17)。しかし反対に、もし人が完全に神に服従したら、やがて高次の生活「永遠の命」が報いられるということを「命の木」をもって象徴的に約束しておられました(2:9,3:22、黙示2:7)。
イエスは罪ある私たちの身代わりに罪のあがないを十字架の死で払い、私たちの身代わりに正しい生活をおくられたので、私たちの代表として永遠の命を神から獲得しました。それが、イエスの復活した新生命です。イエスは神の子として本性状もっている永遠性によって復活したのではありません。人間イエスとして死に,死んだからこそ復活したのです。人間が神の前に罪なく完全に生きた場合に神から報いられる報酬としての永遠の命によって、復活したのです。ですから、イエスの復活には、彼が身代わりとなってくださった私たち自身の永遠の命(救い)が、形をなして示され、約束され、保証されているのです。
最後の意義は、イエスが、人間のもっとも恐れる敵である死そのものを克服したので、世の何者よりも強い王者であることを立証したことです。死を恐れない人は、何ものをも恐れません。イエスが復活した霊のからだ(従って身長も体重もない)をもって昇天し神の右に着座しておられるのは、イエスが全宇宙の支配権をにぎったことを示す象徴的出来事です。彼はいま霊のからだをもって、信ずる者と共にあり、守り、治め、すべての敵を従えつつあられます。彼に、クリスチャンたちは自分の救い、死後の命、最後の勝利の保証を見いだしているのです。
「彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」(2コリント5:15・口語訳)。