いかがお過ごしでしょうか、国立聖書教会の野島邦夫です。
わたしたちは苦しい時、嘆きます。3年前の大震災の中で多くの人たちが苦しみ嘆きました。それを言葉に残した人もいます。
「神さま、新しい年度を迎えます けれど重苦しい思いを引きずっています こころを高く挙げることができません(中略)被災した気仙沼の地で『海よ よみがえれ』と祈りながら 山に木を植える人の姿を目にしました ありがとうございます わたしもなすべきことをなしたいと思います あなたの計らいに身を託して 一歩を踏み出します」
これはたまたま目に留まった、一人のクリスチャンの祈りの詩の一部分です。この詩には何か「希望」が感じられないでしょうか。
美しい、かつての気仙沼の街・港・山は、今は黒い泥に覆い尽くされ、廃材置き場のようになっています。どうしたらよいのか、生きるため一体何から手をつければよいのか、絶望の中に沈んでもおかしくありません。しかし、この方は一歩を踏み出す決意をしておられます。この詩の作者は、ひどい苦しみを味わいながら、なぜ希望を持つことができるのでしょうか。
これが、いにしえの信仰者たちの祈りの詩集「詩編」の中のいわゆる「嘆きの詩編」から、そしてその一つ、今週取り上げる詩編第13編から学びたいポイントです。