メッセージ: 空の墓(ヨハネ20:1-10)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
今日取り挙げようしている個所は、イースターの朝の出来事を描いた箇所です。この日の朝の出来事は、その場を目撃した人たちにとっても、理解を超えた出来事でした。同じ日の出来事を描いたマルコによる福音書は、その日の出来事をこう結んでいます。
「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
どれほど受け止めがたい出来事に出くわしたのかを、生々しく伝えています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 20章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。
復活の出来事というのはキリスト教会にとって、もっとも大切なことがらの一つです。初代キリスト教会の有力な伝道者であり指導者でもあったパウロという人は、その手紙の中で「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です」(コリントの信徒への手紙一 15章14節)と言いきっています。それくらい、キリストが死者の中からよみがえられたということは、キリスト教信仰の中心的な出来事でした。
ところで、復活の日の朝の出来事は、四つの福音書にそれぞれ記されています。それは、イエスを収めた墓が空っぽになっていたという事件の報告から始ります。もちろん、お墓が空になっているというだけでは、一体何が起こったのか、何の説明にもなっていません。当然、それだけではキリストの復活を証明することなどできません。なぜなら、誰かがイエス・キリストの遺体を盗み出したと言うことも考えられるからです。お墓が空なのは、主イエスが死から命へと甦られたからだとわたしたちが言えるのは、それは、わたしたちが出来事の全体を知っているからにほかなりません。出来事全体を知らなかったその時その場に居合わせた人たちにとっては、ただただ、異様な場面に遭遇したというよりほかありません。
この空のお墓の場面を記した記事を読むときに、ほんとうに大切なことは、ここにキリストの復活を読み込むことではなく、むしろ、その時その場に居合わせた人たちと同じように、深い混乱の中で、その出来事を受けとめると言うことだと思います。
さて、ヨハネによる福音書が描くキリストの復活の日の朝は、マグダラのマリアの登場から始まります。マグダラのマリアは、安息日が明けるやいなや、まだ薄暗いうちからイエスを葬ったお墓に向かいます。どうして、お墓へ急いだのか、ヨハネ福音書にはその理由は記されていません。他の福音書の報告によれば、それは、取り急ぎなされた遺体の埋葬を完成させるためでした。安息日を前に、大急ぎでなされた埋葬だったためイエス・キリストの亡骸がどうなっているのか、気がかりだったのでしょう。あるいは、マグダラのマリア一人、密かに嘆き悲しむためにお墓へ向かったのかもしれません。
マグダラのマリアが目にしたものは、塞いでいたはずの石が取り除けらている状態のお墓でした。他の福音書では、墓の中に入ってイエスの遺体がないことを女たちは確認しています。ヨハネによる福音書には、その部分の細かい記述はありません。いくらなんでも、墓の中を確かめもしないで、思い込みだけで、弟子たちのところへ走ったりはしなかったでしょう。マグダラのマリヤはすぐさま弟子たちのところへ飛んで行って、「主が墓から取り去られました」と報告します。
墓が空であったというのは、マグダラのマリアが目撃したとおりですが、「主が墓から取り去られました」という報告は、マグダラのマリヤの解釈を含んだ報告です。もちろん、常識で考えれば、置いたはずの遺体が見当たらないとなれば、誰かが遺体を他の場所へ移したとしか考えられません。しかし、それとても、普通は考えられないことです。いったい誰が好き好んで犯罪人として処刑された人の遺体を持ち去るでしょうか。もちろん、イエス・キリストの弟子たちならそうしかねないかもしれません。しかし、弟子たちがイエスの遺体を持ち去ったのであれば、マグダラのマリアが知らないはずはありません。
「主が墓から取り去られました」と言いながらも、マグダラのマリア自身、自分の言っていることが腑に落ちてはいなかったことでしょう。慌てて弟子たちのところへ報告に走るこの様子に、普通ではない出来事が起こったのだということを見ることができます。報告を受けた弟子たちも大慌てで家を飛び出します。
ペトロともう一人の弟子が先を争ってイエスが葬られていた墓に急ぎます。冷静に、落ち着いて考えれば、イエスの弟子であった彼らが、外をふらふらと出歩くこと自体、危険なことだっただろうと思います。数日前ペトロが大祭司の庭でイエスの弟子であることを強く否定したのは、自分の身の安全を図るためでした。その彼が、真っ先に飛んで行くほど、この日の出来事は彼らにとっても混乱した出来事だったといえます。
お墓にたどりついた彼らが見たものは、まさに空になったお墓でした。ただ、何の跡形もなく綺麗さっぱりとなくなっているお墓ではありません。頭を包んでいた覆いと身をくるんでいた亜麻布とが別々の離れた場所に丸めて置かれていました。それが何を意味するのか、彼らにはまだ十分理解できていませんでした。
少なくとも巻いてあった布をわざわざ解いて、遺体だけを持ち去るというのは、いかにも不自然です。あるいは、中身が蒸発して、布だけがもぬけの殻のようにそこにあったというのでもありません。わざわざ、二つの布が離れた場所に丸めておいてあったのです。
ヨハネ福音書はそれでも、彼らが「見て、信じた」ということを記しています。もっとも、その直後に言葉を次いで「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」と記していますから、「信じた」と言っても、信じた内容は、イエスの遺体がないという事実を信じただけです。ただ、ここで弟子たちが目にした不思議な光景は、しっかり目に焼き付けておかなければなりません。イエス・キリストの復活という出来事は、空想の世界の出来事ではありません。理解に苦しむ不思議な出来事として、まず、弟子たちがこの出来事に遭遇した、そのことを心にとめたいと思います。
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